2017年5月2日

五月には五月の風の吹きにけり

鷹羽狩行の「狩」に入会したのは昭和55年1月、27歳のときだった。実際にはその前の1年間、東京文化センターというところで月に2回先生の指導を受けていたので、師事したのは54年からということになる。
私の句が初めて俳句総合誌に載ったのは昭和56年1月号の「俳句」である。「俳句を明日につなぐために」という新春らしい特集が組まれ、各結社の推薦で79人の若手が5句と短文を発表する機会を与えられた。そのときのメンバーというのが興味深い。何人か挙げると、小澤實、大西健司、岡田耕治、鎌倉佐弓、島田牙城、対馬康子、中岡毅雄、夏石番矢、長谷川櫂、正木ゆう子、三村純也、山下知津子、四ツ谷龍、和田耕三郎、渡辺和弘など。中岡毅雄さんはまだ高校生で、加藤三七子さんの「黄鐘」に所属していた。そんなことを今はもう誰も知らないだろう。田中裕明、三森鉄治、脇祥一など、既に亡くなられた人たちもいて、時間は確実に過ぎたことを思い知らされる。
全員の作品を丹念に読んだ記憶があるが、その中で圧倒された1句──
  眼尻の寒さもろとも振り返る   鎌倉佐弓
なんてカッコイイ句だろうと思った。ほかの4句も〈前を行くひとりが曲がり冬景色〉〈わが夢を入れて明るき鴨の水〉〈なほ鴨の離ればなれを夕日差〉〈遠山を冬来る方として眺む〉など、うまいなあと唸ってしまうものばかりだった。
私はまだ、俳句の広い世界を知らなかった。