2017年6月4日

うすぐらい地球にほたる住むわたし

1歳10ヶ月になる次女がテレビでアンパンマンを観ている。アンパンマンの世界は単純だ。正義と悪がくっきりと存在している。「悪」といっても、せいぜい他人のパンケーキをぬすみ食いするくらいの、かわいいやつだ。その「悪」を一身に請け負っているのがバイキンマンなわけだが、彼もつねに悪いヤツなわけではなく、ときどきイイ奴だったりする。
こうした単純化は、子どもの世界だけではない。若者には若者なりの単純化された恋愛や青春があり、大人には大人なりの単純化された仕事や家庭がある。そうして単純化することで、ものごとは解りやすくなるし、みんな解り合える。
でも、そういう単純化される前の「ありのままの現実」には、いったいどうしたら出会えるのだろう。
こうして世界の単純化について語ろうとするこの言葉もすっかり単純化されていて、書きながらもうどこかに逃げ出したくなっている。

ワシントン部屋張り切る私私来場者用も地球

「私私」と私をたたみかけてくるのが印象的だ。何かとても主張してくる。「張り切る私私」はどこか落ち着かなくて危うい感じがする。

ワシントンは人名か地名か。アメリカの首都ワシントンD.C.とワシントン州は異なる別々の地名。人名も捨てがたいが、ここは地名のワシントン州をとりたい。一番うしろの「地球」規模で見たとき、アメリカ北西部、カナダに近いワシントン州の美しい大自然のイメージが浮かんでくるからだ。ちなみに、ワシントン州はスターバックス発祥の地だそうだ。
「ワシントン」→「部屋」→「地球」ってロケーションのスケールがぐりぐり変わる。それだけイメージすると、ワシントン州の小さな部屋の灯りからカメラがずーっと遠ざかって地表全体を映し出すようなスケールの大きさを感じなくもない。

何か地球規模で眺めているワシントンの小さな部屋で「張り切る私」は、自分自身を「私私」と主張する、ちょっとわずらわしい主体ではあるが、どこか放っておけない愛嬌があるような気もする。
この「張り切る私私」はその勢いで、世界に広がるコーヒーチェーン店のオーナーになるのか、世界一のIT企業の創業者になるのか、あるいは世界のミュージシャンたちに影響あたえる天才ギタリストになるのか。

その中で「来場者用」というぎこちない言葉が気になる。たとえば「来場者用臨時駐車場」とか後ろに言葉が続きそうだ。「来場者用臨時駐車場も地球」。
ワシントン州にある来場者用臨時駐車場にアメリカ中から「張り切る私私」を観に来場者たちが自家用車に乗って集まってくる。夕闇をやってくる自家用車のヘッドライトの灯りが、ワシントンの大自然の中、遠くまで連なっている。