2017年6月21日

いつも未完の朝日から白鷺来る

いまこの日常において、「書くこと」が醤油さしをとってもらうこと以上のお得なアウトプットを与えることができないとしても、「書くこと」は、その象徴化され、意味化された日常の意味に還元することのできない異質なシミとして「書かれたこと」を徴しづけることができる。

それが現在という時間軸においては意味のレベルで何の支えもない「たわごと」にすぎないとしても、未来という時間軸において、それは遡及的に意味を生成する。
「書くこと」と「書かれたこと」の間のギャップが、「たわごと」を「たわごと」以上の意味に格上げするのだ。いわゆる「現実」とは、そのような「たわごと」を「たがごと」以上のものにする特別な何かである。間違えてはならないのは、意味化された「現実」が「特別な何か」を生み出すのではなく、その順序が逆転しているということだ。
言わば「書くこと」は「現実」を生み出す日常に差しはさまれた「布石」なのである。

人生日初回放送ダル壁京成電鉄ここ未完

「未完」という言葉に恐怖を感じる。
ひとつの作品が「未完」になるのは、それを容赦なく「未完」にした理由があって、その「理由」の容赦なさにどうにもならない恐ろしさを感じる。
たぶん、この容赦のなさが、自分自身には客観的には見ることができない「人生」に与えられた「かけがえのなさ」に違いないことは分かっているのだが、それを容易く受け入れることができるほどに、人間が逞しくできていないのだ。

この「未完」についての「恐ろしさ」は、「書かれたもの」にしるしづけられた「開かれ」、つまりは「主体」によって支えられている。「未完」であることは、その「主体」の「やり残したこと」として意味づけられている。「未完」の「書かれたもの」は、「書かれるはずだったもの」として、その可能性として、失われた幻肢として永遠に失われつづける。

だとすれば、「書かれたもの」における「開かれ」は、そもそも、そのような「永遠」に失われたものなのではないか。いま何かを「書く」ということは、常に「未完」でありつづける「恐ろしさ」なのではないか。「書くこと」で完結しているように見えるのは、実はまぼろしで、いつも何か「書き落としている」のではないか。

そんなことを考えていると、ますます書くことが怖くなってくる。

自分はむしろ、誰かに「それで完結しているよ」と認めてほしくて、何かを書こうとしているのかも知れない。