2017年6月22日

水源に暮らす売り子のような蜘蛛

人工知能が人間に代わって「書くこと」がもたらす問題は、そこで「書かれたもの」が人間が書いたそれよりも優れているかそうでないかという比較・評価の可否ではない。つまり、有名なチューリング・テストによって、「書かれたもの」が人間の手によって書かれたのか、人工知能によって書かれたのかを正しく判断できるかどうか、が問題なのではない。

さらに言えば、人工知能が「書いたもの」よりも、人間が「書いたもの」の方に何かしらの優れた要素が必ずあるはずだ、というような楽観論もまた重要な問題を見逃していると言えるだろう。操作主義者は、人間が「書くプロセス」は、厳密な意味でそのアルゴリズムを人工知能によって再現することが可能だと考えるだろう。確かにそうかも知れない。しかし逆に人間側はまったくその通りだと言い切れるだろうか。つまり、人間もまたアルゴリズムに従って何かを「書いている」と言うことはできるのだろうか。

売り子たち水源和む部分部屋輝き量回以上

誤解を恐れずに言えば、誰もが自己の内面に幾何かの「水源」を持っているのだと思う。けれども多くの人はその「水源」に気づいていないのではないだろうか。日々の生活に追われながら、そのような「水源」はすでに失われたものだと感じているのではないだろうか。
「書く」という行為は、そのような「水源」に気づくための行為でもあるし、そのような「水源」への通路をその都度つくりだす行為なのではないか。

その通路は、日々を暮らしている自己という薄暗い「部屋」から続いているのだけれど、その通路を通って自由自在に「水源」へ到達できるわけではない。そうすることができればよいのだけれど、そうはいかない。それは「自己の内面」というものの難しさに他ならない。
皮肉なのは、この「難しさ」こそが、実は「自己の内面」に「水源」らしきもののイメージを生み出し、その「難しさ」ゆえに、その「水源」のイメージは確固たるものになってゆくということだ。

これは一種のパラドクスだ。容易く到達できる場所に「水源」は存在せず、到達することが困難な場所にこそ「水源」が存在することを確信できるという。しかし「書くこと」が前提としている純度の高い「動機」は、そのような「困難さ」を経由しなければ生み出すことができないのではないだろうか。

ということは、我々はこの自己の「水源」と永遠に出会うことはできないのかも知れない。それでも確かに「水源」はある、と信じたい。