2012年5月8日

告発の行方も知らず薔薇は五月

私の現在史3;安土多架志

『二水』や『蜃気楼』の出る少し前に安土多架志の第一句集『未来』が刊行されている。安土の句集も第一で終わっているが、猪村や武藤とは少し事情が違っていた。上梓直後、安土はなくなっていたからである。

安土多架志、本名は小田至臣。昭和21年11月8日、京都に生まれ、高槻高校を経て(このとき同学年に攝津幸彦がいる。国語の教師は茨城和生)、同志社大学神学部に入学、70年安保闘争に参加する。大学卒業後、香料会社に勤務するが、その会社で組合を組織し、組合不信を抱きつつ勝利のない闘争に邁進する。昭和58年、ガンが見つかり、不屈の精神力で闘病するも昭和59年8月23日帰天。享年38歳であった。彼の精神力がいかに強靱だったかは、組合活動の理論化のために中央大学法学部通信教育課程で学習を始めていたのだが、闘病中に、熱に浮かされながらも400字詰め150枚の「生産管理の合法性」という卒論をまとめていたことが示すだろう。

こうした硬派の歩みを取りながらも、不思議な脇道をたどる。昭和50年からサンケイ学園蒲田教室の加藤楸邨の俳句教室に通いはじめる。さらに、短歌、俳句作品を多くの雑誌・新聞投稿欄に投稿する、選を受けた俳人歌人は数知れず。昭和59年8月にはこれらを、歌集『壮年』(書肆季節社)、句集『未来』(皆美社)としてまとめている。学生闘争、組合運動、カルチャー教室、新聞投稿作家。何とも形容の難しい作家であった。

陽炎へばわれに未来のある如し

しづかなるゆふべのいのりいととんぼ

花野行きて道失せしとき赤電話

百科事典ほど静まれり夏の森

ひらかなでわが名呼ばるる浴衣かな

女学生集まりをれり毛虫ちぢむ

第1句は句集巻頭にあるが、意味はよく考えなければならない。我々は誰もみな自分に未来があるはずだと思っている。したがってこの句のような「如し」の使用は虚字であり、オーバーであり、初心者の陥りやすい甘い句と見えてしまう。しかし、安土は昭和58年2月に不治の病の宣告を受けており、様々な治療を試みつつあった、その最後に近い時期に詠まれたのがこの句であった。4ヶ月後に安土はなくなる。だから安土に未来はないのであり、それゆえに陽炎という幻惑の素によって「未来のある如」く感じられたことに対して素朴に驚きを感じたのである。

亡くなる1ヶ月前に、安土はその伴侶と句集上梓の相談をし、句集名を『未来』と決め、巻頭にこの句をおいた。あとがきで安土は、句集上梓に当たって仲間の好意の結集によってこの本が出来たことを喜びつつ「この好意に対して今の私は、何ひとつ報いることができないが、いつの日か報いることのできる日が来ることを念じてゐる」と書いた。二人の視線も、読者のそれも、未来を向いている。たぶん、あり得ない未来を。

*     *

安土の歌集『壮年』は、句集に比べてもっと直接的である。昭和54年から58年までの入選歌800首からえらばれた586首は安土の思想そのものであるといってよい。

止まりたる時計の如き思想とも言はば言へわれは「今」を肯はぬ

暴力を美しとも思ふ夕映の映ゆくわれはつねに負けゐて

悲しみの腹より湧く日マルクスをわが読みゐたり強くなりたい

キスしてもいいか氷雨の降り続く街は淋しい息絶えんほど

きらきらと雨の雫の落つる窓寒き光と思ひて見をり

厚き皮膚持ちて滅びざるもの疎ましシーラカンスもホモ・サピエンスも

しかし安土の最も有名な歌はこの歌集本編には載っていない。最後の後記にひっそりと書かれている。

グリューネヴァルト磔刑の基督を見をり末期癌(ステージ・フォー)われも磔刑

――――何、負けるものか。きつとよくなる。

安土の追悼号は、俳句や短歌雑誌にはない。「虚無思想研究」第6号(昭和60年6月)に「小特集・安土多架志遺稿」が組まれているが、安土の追悼特集はたぶんこの雑誌が唯一ではなかったか。「「反戦」について少々」という文章と「ミネルヴァの梟」と題した短歌50首なのだが、なんといっても虚無思想研究とは安土の追悼特集にふさわしい場であった。