2012年7月7日

また蚊柱にからまれてゐる野口

自称

私は俳句をやっています。
俳句をつくったり読んだり句会に参加したり。そういう人のことを世間では「俳人」と呼ぶようですが、自分のことを「俳人」と自称することはありません。理由は、はっきりとはわかりません。ちょっとおこがましいのか、「俳人」という呼称に魅力を感じないのか(つまり素敵なロールモデルが見出しにくい、逆に素敵じゃないモデルがゴロゴロしている)なのか。

自称として「俳句愛好者」をよく使います。困るのは、これを聞いて、「俳句に本腰を入れているわけじゃあないんだ」と思う人が少なからずいらっしゃることです。だから、去年、句集を出したときなど、「俳句愛好者のくせに句集を出すのか!」と訝る方もいらっしゃったかもしれません。

でも、俳人が本気で、俳句愛好者がウソん気とは、私自身は思っておらず、わりあい本気で遊んでいるのですよ。

(本気であっても、「俳人を名乗るのはおこがましい」くらいの遠慮あるいは皮肉があってもよろしいんじゃないでしょうか)

俳句愛好者という自称を用いる、そのひとつには、ジョン・ケージの「音楽愛好家の野外採集の友」という短文。原題のMusic Lovers’ Field Companion の、その「ラヴァーズ」という語がひどく気に入ったという事情があります。

自分を「俳句ラヴァーズ」のひとりと捉えるのは、かなり快適です。だから、卑下と受け取らないでいただきたい。ただ、「俳人こそが俳句をつくるべきなのだ」と言われてしまえば、「はあ、そうでございますか」と言うしかありません。

その「音楽愛好家の野外採集の友」から一節を引用しておきます。

猿の腰掛のような茸と音楽の女神を結合させてしまったからといって、私が不真面目で軽率で、悪く言えば「ごたまぜ趣味」だ、と思われないために、作曲家はいつも音楽を他の何かと混ぜ合わせているのだということを考えてほしい。カールハインツ・シュトックハウゼンは、明らかに、音楽と曲芸手妻とに興味があって、曲芸の玉投げをするときだけに役立つような「綜括的構造」を作り上げているし、その一方、私の友達ピエール・ブーレーズはと言えば、彼の最近の論文でわかるように、音楽と括弧とイタリック体で書いた言葉とに興味があることは明らかだ。このような興味の組み合わせは、私には法外な数に思える。私自身が択んだ茸の方が、私は好きだし、それに、それはもっと前衛的だ。
ジョン・ケージ「音楽愛好家の野外採集の友」  in『音楽の零度』近藤譲訳  朝日出版社 1980年