2012年7月14日

抽斗に紙魚の寝息といふものも

「本」という《かたち》

「本」というもの、そのどこに注目すべきかというと、その《かたち》です。

紙の片側が綴じてあって、ぱらぱらとめくる、あの《かたち》。眼や脳が楽しむだけではありません。紙の手触りや重さ、指や手が感じる大きさ(判型)・厚さ、紙やインクの匂い。
こんなにマルチな快楽は、そうはありません。

それこそ「誰が発明したんだよ! こんなすごいものを!」てな感じです。

(…)一息おいてカマンテは言った。
「ムサブ、ほんとに本が書けると思ってる?」
 自分でもわからないのだと、私は答えた。
 カマンテとの会話を十分に理解するためには、彼が口をひらく前に置く、その発言のもつ責任の重さを測っているかのような、意味深い沈黙の中味を想像することが必要である。土地の人たちはだれでもこの間合いを置くわざに長じている。間合いには対話の視野を広げる働きがある。
 カマンテはこのときとても長い間を置いた。それから、やおらこう言った。「ムサブにはできないと思う。」
 自分の本について相談する相手はだれもいなかった。私は紙を置いてカマンテにたずねた。「どうしてできないと思う?」カマンテがこの話しあいをあらかじめ考え抜いてきているのはいまやあきらかだった。彼には準備があった。カマンテのいる場所の後ろの書棚に『オデッセイ』があった。それを取りだして、カマンテはテーブルの上に置いた。
「見て、ムサブ。これはいい本だ。はしからはしまで、全部つながっている。持ちあげてきつく振ったって、バラバラにならない。この本を書いた人はとても賢い。ムサブの書くものは――」と言いさして、カマンテは今度は軽蔑とやさしい同情のまじった調子でつづけた。
「あっちこっちバラバラだ。だれかが戸を閉め忘れると風で吹きとばされて、床にちらばって、ムサブは腹をたてる。いい本になるわけない。」
 ヨーロッパでは本屋がいて、みんなまとめて一冊にしてくれるのだと、私は話してきかせた。
「そうすると、ムサブの本はこれくらい重くなる?」カマンテは『オデッセイ』を手で測りながら言った。
アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』 横山貞子訳 晶文社・1981年 p58