枯原や暮光のごとく朝日差す
「準賞」受賞後の「鷹」誌上での私の成績は、まずまず上々であった。二〇〇一年三月号で二度目の巻頭を与えられたのを始め、その後も巻頭に近いところに置かれることが多かった。この頃は同時に、最も精力的に句会に参加した時期でもあった。藤田湘子の指導句会があると聞けば、仙台だろうが大阪だろうが、伊沢惠に連れられて出向いて行った。二〇〇一年も後半に入ると、脳裏にはいよいよ新人賞のことが色濃く意識され始めた。年間の成績で見ると、順当に行けば私が受賞できそうな気配であった。しのぎを削るような強力な対抗馬も、その時点では見当たらなかった。あとはどう着地をするかだけの問題であるように思われた。しかし、そこに思いもかけない落とし穴があった。