2013年7月23日

golden chestnuts
are they lying somewhere waiting for me
or are they soon to fall upon me

意訳:落ちているのか落ちてくるのか 金の栗

今日の原句と意訳はニュアンスが少し異なる。そして、昨日と同様、発想が言語化される前にあったので、英語の原句の方が和訳よりも劣る。原句を直訳すれば「金の栗/どこかで吾に拾われるのを待っているのか/それとももうじき吾が上に落ちてくるのか」であり、栗と作中主体の関わり合いが省略されていない。省略してしまうと意味不明になってしまう。日本語では、「落ちているのか落ちてくるのか」とさえ言えば、作中主体との関わり合いが十分暗示されるので、きれいに省略できている。おまけに、意訳の方には一字空けを用いたので、縦書きにすれば視覚的効果も生まれる。原句の方は視覚効果もないが、修辞らしきものもなく、駄目な韻律が詩情を削いでいる(そんなハイクをなぜ「スピカ」に出したのか、良い子は訊かないでほしい)。

金の栗は、どういうものであろうか。ヘスペリデスの果樹園でしか採れない黄金の林檎のようなもの、火中の栗のようなもの、棚からぼた餅のようなもの、ペルセポネーが食べてしまった黄泉の柘榴のようなもの……。金と云っても、純金なのか、鍍金なのか、それとも光線の具合で金色に見えるだけなのか。割ったら食べられるのか。自由律俳人のそねだゆ氏に拠れば、山頭火は句を拾う、放哉は句は落ちてくると言っていたらしいが、その線で解釈すれば金の栗はハイクの喩ともとれる。

栗(栗の実)は晩秋の季語とされている。その頃に落ちてくるからだ。欧米では十二月が一番の収穫期とされているので、冬の季語である。クリスマスの時期によく歌われる「The Christmas Song」は副題の「Chestnuts Roasting on an Open Fire」の方が有名で、欧米人にとって栗のシーズンと云えばクリスマス・シーズンである。

栗を食べる歴史はかなり古い。アジア、欧州、米州では品種が違うが、それらの地では数千年以上も前から食材として用いられてきた。世界中の古代語に栗に相当する語彙があるのが証拠。地中海沿岸では四千年前に栽培されていたことが判っている。アレキサンダー大王やローマ帝国の遠征によって欧州中に広められたそうだが、比較的寒い地域でも栽培が可能だったためである。アメリカ大陸では、白人が移民してくるより遥かに昔から原住民は栗を食していた。日本では、遺跡出土の遺物から、栗が縄文時代における重要な食材であったことが判っている。また、縄文時代の建築材や燃料材も大半が栗の木である。

ちなみに、現代日本で栗を食べるとすれば「天津甘栗」を買う人が多いが、「天津甘栗」は「天津名物の甘い焼栗」や「天津で栽培された甘い栗を焼いたもの」という意味ではない。甘栗とは、栗の種類のこと。日本栗よりも渋皮剥皮が容易である中国の板栗(シナ栗とも云う)ないしその種を改良したものの通称である。以前までは、中国産の甘栗は天津港から日本に運ばれて、焼栗として普及していたため、「天津甘栗」と呼ばれるようになった。天津で採れた栗ではないし、焼栗は天津名物ではない。現在は、日本を含む他の国でも板栗やその改良種が栽培されているので、中国産を使っていない「天津甘栗」も日本では出回っている。フランス人もよく焼栗を食べるが、形も味も異なるのでたぶん別の品種。詳しい方は、ご一報を。