ふらここを乗り捨て今日の暮らしかな   野口る理

 「今日の暮らし」が気に掛かる。たとえば「今日の仕事」なら分かり易い。「仕事」は一日の時間の一部で、ふらここの時間から今日の予定の仕事へ気持ちを切り替える、ということはあり得るからだ。だが「暮らし」は仕事と違って生活全般を指し、連続するもの。「その日暮らし」などという言葉があるのも、連続性を前提にするからだろう。

 あるいは、「ふらここを乗り捨て」と「今日の暮らし」は時系列に沿うものではなく、「ふらここを乗り捨て」が「今日の暮らし」の様子を指し示しているのかもしれない。また別解として、「今日」は「こんにち」の意味で、「ふらここ」を乗り捨てた過去と「今日の暮らし」との間には一定の時が流れているというのかもしれない。

 とはいえ、この二つの解釈にはなんだか無理がある。やはり、ふらここを乗り捨てて今日の暮らしに移る、という最初の読みが素直だろう。であるなら、しかと着地するには「昨日」と「明日」がうすぼんやりしているのが自分の「暮らし」の実感だと、この句はそれ自体で語っているのかもしれない……などと考えるうち、読者である私は随分長く、揺れるふらここに乗ってしまった。

「眠くなる」(『俳コレ』邑書林、2011)より。