焼藷割って大きいほうは私が貰う  神野紗希

問いをふたつ提示する。ひとつ。幼い子供は自分の「幼さ」を意識しているのだろうか。ふたつ。紗希さんの俳句にときおり描かれる作中主体の「幼さ」は、意識されてのものなのだろうか。

僕はその両者にイエスであり、ノーであるという卑怯な答え方をする。なぜなら、幼さを全く意識させずに生きていられるほど子供の世界は平坦ではないし、同時に幼さは完全に制御された瞬間にその魅力をなくすからだ。俳句には飛躍や余白の部分が存在し、言葉は完全に制御できるほど容易なものではない。それと同様に、幼さはある種の矛盾そのものをそれ自体として孕む。

掲句。単に無邪気な主人公像を描いた読者は、もっと踏み込まねばならない。この句は、
・「大きいほう」ということで、割られた焼藷の数をふたつに限定し
・「貰いけり」ではなく「私が貰う」とすることで作中主体と作者像を結び、字余りとすることで口語的味わいをプラスする
・と同時に貰ったのが作者の意思通りなのかは必ずしも断定できない
といったように、「幼さ」が制御され、かつ制御され切っていない。テクニカルなのである。「聡明な子供」と「無邪気な大人」のどちらが幼いのか。どちらにしても、この句からは俳句における「幼さ」のひとつの問題提起を見いだせるように思う。

「まずテレビ」(2013.2)より