あきるほど夏の河原の夢を見る  江渡華子

さて。華子さんの俳句のほつれめについてつい熱く語ってしまったが、華子さんの俳句は大きく分けて3つに分類される。

①自己を主題として書かれた句
②他者を主題として書かれた句
③境界線上にある句

である。掲句は①に分類される句だ。
華子さんが自己や他者の在り方を詠む句とき、特徴的な動詞がよく混じる。この句の場合は「見る」という動詞だろう。「あきる」も面白い動詞の出方をしているが、華子さんの俳句をもっとも象徴する言葉遣いは、この「見る」にも現れている不思議な断定だ。不思議というのはなぜか。通常俳句において動詞は略されることが多いように、動詞に存在感を持たせて一句を成り立たせることは難しい。この句でも、夢は見るものだと言って、見るを略してしまう作家もいることだろう。しかし、この句の場合その散文的な文体によって、動詞止めによって夢という単語が宙吊りにされ、余韻を持って読者の中に残る。断定的な動詞を持って句を終わらせることで、しかもそれが自己の状態を詠んだ句であることで、作者が生きて、それを経験したということが濃密に匂いたっている。あたかも作者から耳元でそれを告げられたかのように。

(「蛍狩り」 2012.07より)