恋人のほくろに小さき鶴棲むか   野口る理

俳句における作家性とは、作品が生まれてゆくなかで、自己の内部に生まれた齟齬を取り込みつつ自己増殖的に領域を拡大してゆく営みを言う。作家が自らの俳句に作家性を与えるのには努力が必要となるが、それが一旦生まれてしまえば、そのほころびはむしろ新たな物語を生み出し、増殖を止めることは難しい。作家性が作家を縛るのはそのためであり、作家性を作家自身が変容させるためには長い時間が必要となる。
さて、この説明の中で物語という言葉を用いた。作家性と物語性は極めて近しい関係にある。というより、物語性は作家性を強化する装置として働く。る理さんの俳句に作家性は見られても物語性が希薄なのは、実は驚くべきことなのかもしれない。
掲句、例えば「恋人のほくろに棲める小さき鶴」と改悪すると多少の物語性が生まれるだろうか。物語はそれが作家自身から生まれたものでありながら、作家が生身の作家自身として物語に現れることをひどく嫌う。物語にとって作家はあくまでもキャラクターでなくてはならない。
る理さんは、掲句において、句を幻想でなく独白とすることで句を現実の此岸に保ち、物語を排除する。そのことこそがる理さんの作家性であり、特異性であろうと思う。

「ほくろ」(2013.1)より