スピカで連載してもらっている『平成俳風鳥獣戯画』(↑)2011年6月7日の作。
「僕達に似すぎているからだ」という谷の言葉を待つまでもなく、猿は人間の映し鏡だった。
首吊りという行為も、おそらく人間だけのものだろう。掲句。首を吊る「正直な猿」は、いったん映像化され、それをよく目を凝らしてみると、だんだんと、人間の姿になってくる。象徴というのは、そういうものなのだろう。まず、猿が映像化される。だから生々しい。
「正直」という語が首吊りという語と結び付くと、今の世の中、正直な人ほど生きづらい、というような、よく聞くフレーズが思い浮かぶ。でも、たぶん、正直な人より、正直な猿のほうが、もっと一生懸命でかわいそうだ。でも、いくら「きらきらと」という言葉で美化しようとしても、その言葉がどうしようもなく浮いてしまうほど、この状況を肯定する、ということはしがたいことだ。そのように浮くためにこそ、「きらきら」の語がある。最後の「か」の問いかけは、まるで「見ろ」といわれているみたいだ。
谷は、猿というモチーフを好んで詠む。
戯画的に戦争をモチーフにした「気分はもう戦争」という連作では
開戦ぞ身近な猿の後頭部
をつくり、『別冊まるわかり俳句甲子園』(角川学芸出版 2010)では、
猿を押し倒し西暦を教へけり
猿同士顔は違へどこころはひとつ
落ちていく猿を見てゐる猿のむれ
と、猿の連作を発表している。
「身近な猿の後頭部」は、キューブリックの映画『フルメタルジャケット』を思い出すし、西暦を教えられる猿は、どこかおびえた少女のような気もする。結果的に、句のなかの「猿」を人間のメタファーとして読むことは、そこで書かれているだろう人間への揶揄とゆがんだ愛情を読みとることになる。谷の句には、猿の句に限らず、たいてい、そうした揶揄と背中合わせのゆがんだ愛情があり、そういう部分に強く惹かれる。
そもそも、動物というのは、程度の差こそあれ、人間の似姿なのかもしれない。イソップが寓話を書いたように。このあとの残りの7句が楽しみである。