朝はじまる海へ突込む鷗の死   金子兜太

朝が来る。まっくらな、闇のかたまりだった夜の海がほぐれて、朝の光がやってくる。新しい一日がはじまるのだ。そんなとき、一羽の鴎が、海へと突っ込んだ。あがってこない。海は、いつものとおり、変わらず広く青い。多分、鴎は死んだのだ。そして私たちは、昼を過ごし、夜を迎え、また新しい朝が来る。

 

海に生きる鴎には、きっと、そういう死もある。むしろ、鴎とはそういうものなのだと、なかば強引に結論できる気もしてくる。「突込む」の潔さが、鴎の意志なのか、死の引力なのか、それは分からない。

 

『金子兜太句集』(風発行所 1961年7月)より。

 

今月12日(日)に、現代俳句協会青年部の企画で発表してきた。

「現代俳句協会青年部勉強会 シンポシオンⅣ ポスト造型論」。宇井十間氏、私、外山一機氏の順に、基調発表をし、参加者全員によるディスカッションをした。

(野口る理によるスピカのレポート記事はこちら

 

兜太の造型論は、「写生」や「人間探求派」の創作理論に疑問を呈し、作者と作品とのあいだに「創る自分」を設定したところが画期的だった。しかし、結局、兜太が造型論の創作法を説明するときに、自作を引用せざるをえなかったことに象徴されるように、造型論はあくまで制作過程の“秘密の工房”での出来事を記述したもので、できあがった作品をどう読むかということに応用することは難しい。ある一句を見て、それがどのように出来上がったのかを言い当てることはできないし、あんまり意味があることとも思えない。

 

なんにも考えないで、すらっとできた句でも、どんな深遠な思想から生まれた句でも、いい句はいいし、だめな句はだめ。できあがったものが全てなのだ。

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