【1】  くれなゐのこゝろの闇の冬日かな    飯田蛇笏

紅と黒と白。これらの色彩の混淆から掲句は成り立っている。「くれなゐ」とはまさしく人間の生命そのものを象徴する色彩であり、「こゝろの闇」は当然黒の色彩ということになる。そして、晴れ渡った冬空に遍照し鋭く真っ白な光を一散に投げかける冬日の存在。眩い冬の光に瞼は暫時反射的に瞬きを生じ、その作用によって赤と黒と白の色彩の交錯が眼からそのまま意識の内へと投影される。

冬日の暖かさと瞼を透して認識される「くれなゐ」の色彩が不思議な生命感を静かに喚起する一方で、なにかしら「紅涙」という言葉に象徴される悲哀の感情に近いものが微かに句の背後から感取されるように思われるのは、「こゝろの闇」という表現に見られる冬日の只中でさえ己の内奥を「闇」そのものと観じる眼差しの存在ゆえであろうか。

源実朝に〈見てのみぞ驚かれぬる烏羽玉(うばたま)の夢かと思ひし春の残れる〉という和歌があるが、掲句はこの一首の紡ぎ出す光と闇の反転、反照するイメージと幾分か似通うものがあるといえよう。例えば「こゝろの闇」にしても、この一首における古来より夜、闇、夕、月、今宵、夢などにかかる枕詞「烏羽玉(うばたま)」の語とそのまま呼応するものがある。思えば蛇笏には〈たましひのたとへば秋のほたるかな〉、〈山の春神々雲を白うしぬ〉、〈ありあけの月をこぼるるちどりかな〉などといった和歌的な雰囲気を湛えた句が幾つか見られ、掲句もまたその流れを汲む作品の一つといえるのかもしれない。

また、蛇笏には他に〈貝寄や遠きにおはす杣の神〉、〈いにしへも火による神や山ざくら〉、〈山中の蛍を呼びて知己となす〉、〈天馬秋を行きて帰らぬ雲つづき〉、〈霧去るや雲路鈴ゆく神の森〉などといったそれこそ神話の時空をそのまま髣髴とさせる作品が時折姿を現すが、これもまた万葉集などの古(いにしえ)の世界と照応するものであろう。

このように古代的な視座から自然や生命の聖俗両面を併せ持つ原初的な姿を時に幻影をも交えて描写したのが、飯田蛇笏という俳人であったといえるはずである。

飯田蛇笏は、明治18年(1885)山梨県生まれ。明治41年(1908)、虚子に入門。虚子復帰後の大正4年(1915)、「ホトトギス」に投句再開。大正6年(1917)、「雲母」主宰。昭和7年(1932)、『山廬集』。昭和37年(1962)、78歳で没。昭和41年(1966)、『椿花集』。

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