鶏小屋の鶏がばたつくのならわかるが、「父がばたつく」とは。まるで、鶏の中の一羽が、父そのもののような言いぶりだ。現実には、鶏小屋の中に入った父が、ばたつく鶏を少々慌てつつ捕えている最中なのだろうか。
寺山修司が父の書斎に嗅いだのは犀だった。犀になぞらえられた父は、どっしりとしていて、獰猛さを秘めた静かな性質だと思われる。虎やライオンのように手放しにかっこいいわけではないが、そのぶん不気味な迫力をたたえている。対して、鶏小屋でばたつく父。犀に比べても鶏は小市民的だし、「ばたつく」という動詞自体が、すでにかっこ悪い。そんな父を哀しみつつ愛しく思いやっている、その心情がまさに「残暑」のべたつきと同質だ。
第二句集『羽後残照』(しらかみ句会 2015年1月)より。