『国語科通信』第三五号(角川書店、一九七七・七)の一句。『国語科通信』は一九六六年に創刊された教育関係者向けの雑誌である(現在は終刊)。今回とりあげる第三五号では「現代俳句」を特集している。主な記事は以下の通りである(カッコ内は執筆者)。
明治大正俳句史概観(村山古郷)
現代俳句史素描(矢島渚男)
明治大正期の俳誌概説(三谷昭)
明治大正期主要俳書目録(村山古郷編)
昭和俳句今昔〈座談会〉(香西照雄、能村登四郎、森澄雄)
現代俳句と季(原裕)
原爆と歌と俳句(中桐雅夫)
俳句は青春をうたえるか(小室善弘)
現代俳句の教授について〈アンケート〉
現代俳句と私(森田峠、山下一海、友岡子郷、福永耕二、広瀬直人、鍵和田秞子、穴井太、石井保)
執筆者はほとんどが著名俳人、俳句研究者であるが、一方で矢島渚男は長野県立上田高校教諭、香西照雄は成蹊学園高校教諭、というように、教師を生業としている俳人を多く起用している点がおもしろい。
前半の三谷昭の俳誌概説や村山古郷の俳書目録は、国語教育にどれだけ有用なものであるかはともかくとして、こうした教育関係者向けの雑誌に掲載されているのがもったいないほど充実した内容になっている。子規をはじめ日本派、ホトトギス系の俳誌・俳書をとりあげているのはもちろんだが、旧派、秋声会、俳諧雑誌系にも目を配っている点や、沼波瓊音(『俳諧講演集』『新古俳諧奇調集』『俳論史』)、岡本癖三酔(『癖三酔句集』)、安藤橡面坊(『深山柴』)ら今日ほとんど脚光を浴びることのない俳人をリストアップしている点などは、明治大正期の俳句表現がいかに豊かなものであったかを伝えるものであり、貴重なものだ。
この『国語科通信』第三五号のもうひとつの見所は、当時の学校教育において俳句がどのようにまなざされていたのかをうかがい知ることのできる記事が掲載されている点であろう。そのひとつである「現代俳句の教授について」は、高校の国語教師一六名がアンケートに答えたものだ。質問内容は「現代俳句の教授のうえで特に苦心する点」「教科書俳句の中で生徒が興味を持ったと思われる作品」。前者に対する回答としては、「教科書に採られている作品の世界は、現在の生徒の生活とは距離がありすぎる」(中尾卓爾(京都府立乙訓高等学校))、「温室やビニールハウスの普及により、食物にも草花にも季節感は失われた。田舎でも現在の受験体制の中で周囲の自然に心を配る余裕はない」(藤原明美(岡山県立倉敷南高等学校))など、生徒における季節感の喪失や俳句が制作された当時との生活環境の差異によって生徒の実感に訴えることのできる読解の指導が困難であるという回答が目立つ。これらは多かれ少なかれ現在においても共通する問題であろう。
こうした回答のなかでも興味深いのは沖縄や北海道の教師のものである。
南国沖縄は美しい自然に囲まれてはいるものの、四季の変化に乏しく本土とは異なった風物の中で生活しているので、本土の一流作品を鑑賞する際に、頭では理解できても、真に実感として把握し、追体験することが至難の業である。従って自分をとりまく沖縄の風土に立脚し生活に密着した〝風土的俳句〟を鑑賞させ、創作の喜びを味わわせることに苦慮している。(島袋常正、沖縄県立小禄高等学校)
季感・生活感覚の差異を、地域性・時代性の側面ばかりで考えようとすると、素材主義に偏向することになろう。短詩型の持つ象徴性・暗示性に焦点を絞って、内在する言語感覚を掘り起こすならば、生徒の感動を映発することも可能となる。(水谷郁夫、札幌北高等学校)
彼らはいずれも、季語の本意を自らの生活体験からはとらえにくい風土にあって俳句はどうすれば教えられるのかという問題に直面している。
さて、表題句に話を移すと、これは「現代俳句と私」というテーマに対し山下一海が寄せた文章のなかで掲げられている一句である。この「現代俳句と私」は自身の俳句との出会いについて綴るというものであるらしく、他の寄稿者と同様山下も自らがどのようにして俳句と出会ったのかを記している。それによれば、佐賀県鹿島の旧制中学に通っていたころ山下が買い集めていた岩田潔編の「現代俳句叢書」全六冊の第三編に『定本素逝句集』(臼井書房、一九四七)があり、表題句は同書に収録されていたものであるという。ちなみにこの「現代俳句叢書」は戦後まもない一九四六年から四七年にかけて刊行されていたシリーズで、他に日野草城『春』、岩田潔『女郎花』、池内友次郎『調布まで』、石田波郷『風切』、橋本多佳子『信濃』があった。このシリーズによって素逝にふれた山下の次の言葉は、素逝の句の変化に対する当時の一青年の感想をうかがい知ることのできるものとして興味深い。
うちにあった「ホトトギス」や「俳句研究」で、素逝の名前は知っていたし、『砲車』という句集の題名も知っていた。『砲車』そのものは見ていなかったが、「雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り」というような句は、雑誌で読んだのか、人が引用したのを見たのか、覚えていた。『定本素逝集』を買ったときも、まずそのような戦場俳句を期待したが、それは裏切られた。素逝が自選の際に全部捨てたのである。そのかわりに、「さよならと梅雨の車窓に指で書く」「どんとうつおぼろの濤の遠こだま」「芽ぐみつつさくらの幹を雨ながれ」「ねむい子にそとはかはづのなく月夜」「子は母と麦の月夜のねむい径」というような抒情を発見して嬉しくなった。これらの句は、今の私が選んだのではない。その当時の私の鉛筆の点印が本の句頭にあり、それに従ったまでである。
合同句集を含めると素逝は一九四六年に四〇歳で亡くなるまでの間に六冊もの句集を上梓していた。第一句集『砲車』は一九三九年の刊行だから、わずか七年間でのことである。『砲車』以後の句集を挙げると『三十三歳』(三省堂、一九四〇年)、『幾山河』(合同句集『現代俳句』第二巻(河出書房、一九四〇年)所収)、『ふるさと』(七丈書院、一九四二年)、『暦日』(宝書房、一九四六年)、『村』(竹書房、一九四六年)であり、山下の読んだ『定本素逝句集』は素逝が晩年に編み、没後に刊行された七冊目の句集である。山下の回想するように素逝といえば日中戦争での従軍体験をもとに詠んだ句をまとめた『砲車』が有名だが、当の素逝はその句を『砲車』以後は封印してしまう。「戦場俳句を期待したが、それは裏切られた」と山下が書いているのはもっともなことで、素逝は『定本素逝句集』を編む際に『砲車』からはわずか三句を採るのみであった。このような自選がなされた理由を戦後という時間のみに帰してはならない。たとえば晩年の素逝は『暦日』『村』の二句集を上梓しているが、一九四二年から四七年の作品で構成される『暦日』も、一九四〇から四五年の作品で構成される『村』も、『砲車』とはおよそ趣の異なるものであった。
夕焼にそまり水車をふみつかれ
水論が嫁ひきとれとなつたとか
街道はとほり冬田はただありぬ
草むらにうごかぬ蛇の眼とあひぬ
しづかなるいちにちなりし障子かな
戦場俳句を期待していた山下を裏切った『定本素逝句集』の編集方針は、『砲車』によって高まる世評のなかにあって素逝が抱え込んでいた痛みがいかなるものであったのかを示唆するものであろう。たとえば『砲車』には「汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず」という句がある。あるいは「南京を屠りぬ年もあらたまる」もある。戦争のリアルに詠んだものとして知られた『砲車』だが、しかしながら、これらの句は戦争を詠んだというよりもむしろ句の向こう側にある詠むことのできなかった戦争の過酷さを思わせる。思えば『砲車』とは、このように書かれていないことがあまりにも多い句集なのではなかったか。
『砲車』は素逝自身のみならず、それを読む者にのっぴきならない問いをもたらす句集である。山田征司は「長谷川素逝私論 句集『砲車』をめぐって」(『WEP俳句通信』二〇〇七・一二)で戦後における『砲車』の読まれかたの変遷をまとめているが、それによれば「戦争俳句の名著とされ、その範とされて、戦意の高揚と聖戦遂行に寄与した」『砲車』は、戦後体制下においてまず「素逝の名声を高めたこれらの戦場吟も、調子がなだらかで言葉の斡旋も巧みだが、単純過ぎて、何の懐疑も持っていないのが概して物足りない」(山本健吉『現代俳句』下巻、角川書店、一九五二)と批判的に語られることになる。山下が素逝の句集を手にしたのはこのような時代であったが、仮に『定本素逝句集』に『砲車』の戦場吟が多く収録されていたら山下の素逝への印象も違うものになっていたのだろうか。
私は佐賀県の、有明海に近い鹿島という町の中学に在学していた。その小さな城下町も、今は市になり、中学は県立の高校になっている。学校は城跡にあり、赤い城門をそのまま校門にしているのが自慢だった。―街の大通りから大手門をくぐると、道は幾曲りかしながら城門へのぼってゆく。その道の両側はずっと桜の並木で、春になると、見事な花のトンネルになる。道が尽きるところに真赤な城門があらわれ、城門直前の急坂の両側には堀があって、ときどき花が散りこむ―。素逝のこの句は、あの鹿島城址の春へ、今も私を連れていってくれる。
満開の桜を詠みながらもそこに鈍痛のような「おもたさ」を見、ゆったりとした花の動揺を見出す素逝の句は満開の桜を諸手を挙げて言祝ぐというよりも、どこかものうげな印象である。『定本素逝句集』にはほかにも「根もとよりあふぎて花のくらきほど」「花のなかおのづからなる花の翳」「夕かげとなりゆく空を花のひま」といった句がある。山下はこれらの句について「まさしく私の少年時代の、城址の春の感傷そのままである」とも書いている。『定本素逝句集』によって山下は素逝を「雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り」の作者ではなく「咲きみちしおもたさにある花の揺れ」の作者として長く記憶することとなった。今なお『砲車』とともに語られる素逝だが、山下にとっては『定本素逝句集』の素逝こそが自らにとって切実な素逝像なのである。
『定本素逝句集』は素逝が死の直前にまとめた、当時の素逝が自他に許しうるぎりぎりの範囲で提示した自らの句業であった。それはむろん素逝の句業の全貌を示すものではない。だがこの一書には、多分に個人的で感傷的な印象とともにそれを享受した一人の少年が確かにいたのである。