一字違いの子宮と地球雪解川  神野紗希

(スピカ「春のりんご」2016-2)

「地球」というものも、まじめに考えてみると、なかなかに遠いものだ。日常の生活のなかで、多くの人は地球という俯瞰的な規模で物事を考えることはあまりない。何時にどこへ行かねば。あれこれと済ませねば。つぎつぎに到来する〝現実〟に、地に足をつけてしまえばしまうほど、「地球」という俯瞰的な位置から遠ざかる。『光まみれの蜂』にある「水ありて地球は丸し春休」だって、「春休」という季語だからこそ丸く収まっているのであって、生活感のある季語には馴染まなそうな措辞である。「地球」という「遠さ」を詠うとき、〝現実ばなれ〟と評されてしまうかもしれない。
取り上げた句は、「褒美の字放屁に隣るあたたかし 中原道夫」(『アルデンテ』ふらんす堂1996-4)に似た字面の遊びをしながら、言葉の上だけでなく、育むという行為において親和性が高い二つを並べている。季語のつき方は「やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子」(セレクション俳人『正木ゆう子集』邑書林2004-8)、「心臓はひかりを知らず雪解川 山口優夢」(『残像』角川学芸出版2011-7)に似ている。地球という「遠い」〝現実ばなれ〟したものを、自らの内部に空間として見出す。『クプラス』創刊号の特集「いい俳句」のなかで、紗希さんは「闇寒し光が物にとどくまで 小川軽舟」を挙げている。生まれ育ってきて、一度も光が差したことのないその空間で命が育まれ、そして、光のなかに産み落とされる。