教会を出てより蟇の貌となる  春田千歳

教会で祈りをささげたあと、扉をくぐって出てきたひとの顔が、蟇に似ている、というのだ。蟇は、醜いものの象徴。しかも、似ているというのではなく「蟇の貌となる」と、本当に蟇の貌になってしまったかのような書き方。業のくるしみを感じる。
普通、教会で懺悔をして神の前にたてば、すっきりと清浄なこころになるのかと思うが、むしろ、自らの醜さをつきつけられ、愚鈍な私として、世俗へ帰ってきたという感じなのかもしれない。「顔」ではなく「貌」であるところも、ちょっと人間らしさを欠いているように思わせる。

昨日とおなじ、「ふらんす堂通信」130号より。句集『鰐の眼』(ふらんす堂)で第7回日本詩歌句協会俳句大賞受賞記念の、新作10句のなかの一句。ほかに「魂も海月も濡れて漂へり」「風速し雄鹿は角で考へる」など。現実が、思念によって、ぎゅっと描きかえられているのが面白い。