誰かがおとして忘れていったのだろう、プールの底に、腕時計が落ちている。水中なのに「時刻む」なのは、防水加工タイプだからだ。
潜ったプールの中というのは、音がほとんど聞こえないからだろうか、それとも妙にひかりかがやいているからだろうか、こちらのうごきが極端に鈍くなるからだろうか、まるで時間がとまっているかのように感じられる。時間のエアポケットにとりのこされてしまった腕時計は、永遠に、そこで時を刻み続ける運命にあるかのようだ。
実際には、誰かが拾うだろうし、プールの季節が終われば掃除されるのだけれど、いま、私たちの目の前にあるのは、あかるく日のさすプールの底に、銀色の腕時計がぽつりと落ちている光景。その光景それ自体が、わたしたちに、取り返しのつかないものを思い起こさせ、どうにも懐かしい気持ちにさせるのである。
「豈52号」(2011年10月)より。特集は「被災記」「前衛は生きているか 伝統は死んだか」「ジャンルの越境」の3つと、あいかわらず充実している。
中でも、外山一機さんの「おまえは「前衛」か」が興味深かった。金子兜太の結社「海程」内である時期から顕著になる、兜太俳句追従の傾向に着目し、「時代の推移とともに「造型論」や兜太の表現行為の根底にあった戦争体験を共有しあえない状況が生じ、それが安易な兜太への追従――すなわち表現の類型化へとつながったのではあるまいか」と考察している。外山さんの文章は、「わかりあえない」ところから書き起こされているところが好きだ。「わかる」ことについてのみ書くのは簡単だけど、たぶん私たちは、「わからない」「わかりあえない」ことを乗り越えなきゃいけない。
私も、二番目の特集に「前衛俳句を疑う」という論を書かせてもらった。いまの若手の新たな傾向を「懐疑する」という姿勢に見てみた。