死がふたりを分かつまで剝くレタスかな  西原天気

「死がふたりを分かつまで」。美しい定型句だ。しかし、定型句だからこそ、ふだんはこの言葉を聞いても、その言葉の内容に心が到達する前に、その言葉の前を離れてしまう。でも、「死がふたりを分かつまで剥く」と、具体的な「剥く」という動作につなげたことで、定型句が日常のことばの中に戻ってくる。こんぶを水に戻すようなものだ。そうやって、ふつうの言葉として改めて息をふきかえすことで、切実に「死がふたりを分かつまで」という言葉が感じられるようになる。

あ、「死がふたりを分かつまで」、なにをするのかと思ってたら、レタス剥くのね、という明るさ。レタスが明るい。じゃがいもの土臭さでもなく、大根の水っぽさでもなく、キャベツの重さでもなく、レタス。

実際には、レタスを剥いたり、ふたりでサラダを分かち合ったりしながら、「死がふたりを分かつまで」、ともに生活するのだ。

第一句集『けむり』(西田書店、2011年10月)より。