しぐるるや白き兎の青むほど  秋山百合子

兎の体温が、しぐれの冷たさに奪われてしまうような、心細さをおぼえる。兎の白が、さっと青みがかってみえる。きっと、絵画にしたら美しいだろう。

同人誌「家」2012年2月号より。

加藤かな文さんの「細見綾子ドリル」の連載が再開したとたん、面白い問題提起がされている。少し長いが、大切だと思ったので、引用します。

俳句には、俳句らしい(古い・古く感じられる)俳句と俳句らしくない(新しい・新しく感じられる)俳句がある。そして、それぞれに「俳句でしか言えないこと」を言っている俳句とそうではない俳句がある。以上のことからすれば、「俳句らしくない」ことと「俳句でしか言えないこと」が重なっても不思議ではない。
 世の中にはいろいろな考えがある。「俳句でしか言えないこと」でなくても、「俳句らしくない」、すなわち新しければいいと考える者もいる。あるいは、「俳句でしか言えないこと」を言っているのであれば、ちょっとぐらい俳句らしい俳句であってもい、賞味期限を切れた古臭さは気にならない、という者もいる。「俳句でしか言えないこと」を言っている方がいいに決まっているし、それが「俳句らしくない(新しい)」俳句であれば申し分ない、と私は考える。が、どうも「俳句でしか言えないこと」でない方がいい、とか、俳句らしい方がいい、という考え方も世間にはあるように思われてならない。審美眼の違い、と片づけるには、あまりに大きな隔たりではないだろうか。
(「細見綾子ドリル 30」)

できるだけクリシェにならないよう、丁寧にことばを紡いでいるところに共感した。しかしながら「俳句でしか言えないこと」至上主義までいくとなかなか厄介で(もちろん、かな文さんはそうは言ってません)、これが昂じると、俗っぽい感情、当たり前の感覚を詠むのは悪、つまらない、というところにまで達してしまう結果に。一句の中に「俳句でしか言えないこと」がすこしも入っていないというのもつまらないし、新しいだけでもだめ、古すぎてもだめ・・・。このへんは、ケースバイケースの、バランスなんだよなあと思う私は、俳句という全体像の輪郭を描く気がないという点で、まだまだ無責任なのだろうと反省しきり。