眼鏡拭き父はまたどこかへ春よ  小川楓子

父親というのは、ふらふらと出かけてしまう、そういう生き物なのだと思う。自分の父を思い浮かべて、なんだ、うちだけじゃないんだな。とほっとする。春になったことで、より頻繁になったなと意識したのだろう。眼鏡を噴いていたなと思ったら、もういない。けれどその少し勝手なところも、春は春のせいにできるから好きだ。
またすぐどこかへ行っても、この句の父親がそのまま帰ってこないとは思えないのは、父親の描かれ方でも春のせいでもなく、冷静に「また」と言っている娘の姿からだろう。

「風に揺れる」『俳句』(角川学芸出版 第61巻6号)より。