【2】一人居て一人の浄土 水中花     宇田川涙光

杉浦強編『合同句集 心開眼』(全生園多摩盲人会俳句部、一九七四)の一句。全生園は一九〇七年に制定された癩予防法に基づいて東京都東村山市に設立された全生病院を前身とし、国立療養所多摩全生園と称されるハンセン病患者の療養施設である。全生病院時代に北條民雄が入園し「いのちの初夜」を書いたことでも知られている。本書の上梓された頃の全生園の概況を巻末資料から探ると、当時の患者数は一〇四〇名(定員一四七〇名)で、これは熊本の菊地恵楓園、岡山の長島愛生園に次ぐ規模であった(一九七〇年一〇月現在)。同園には将棋会などの各種の趣味娯楽サークルのほか、短歌会、詩話会などの文芸サークルも存在し、そのうちのひとつに俳句サークルもあった。全生園には同書刊行当時視力を失った者が一六八名いたが、そのうち一五名で盲人会俳句部をつくり、『心開眼』はその成果としてまとめられた。同書には一四名の作品と編者であり俳句部の指導者である杉浦強の作品が一人につき三〇~二〇〇句あまりの幅で収められている。

同書の帯には「俳句で綴る癩者の生活記録」とある。「頒価一〇〇〇円」ともあるのでこれは必ずしも内輪の記念にとどまるものではなかったのであろう。「生活記録」という語について鳥羽耕史は、一九五一年の無着成恭編『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』の出版を一つの契機とし、一九五〇年代を通じて市民権を獲得していったことを指摘している(『一九五〇年代―記録の時代』河出書房新社、二〇一〇)。『心開眼』の刊行の背景には少なからずこうした生活記録ブームの影響もあっただろう。また一九五五年三月には『俳句』で村越化石が属する栗生楽泉園高原俳句会編纂の「療園俳句集」の特集が組まれたが、これは当時の時代状況と、やはり当時の編集長が偶然にも大野林火であったこととがもたらした稀有の果実であった。同特集では「療園俳句」を組織化した起点を一九三七年創刊の「鴫野」(本田一杉主宰)とし、はじめそれは「慰安娯楽の具」であり境涯詠はむしろ禁忌の対象であったという指摘がなされている。そのうえで化石はまた境涯詠に赴いた特筆すべき作家として太田あさし、浅香甲陽らを挙げている。つまり化石の第一句集『獨眼』(一九六二)は彼らの作品以後のそれとして位置付けられるものなのである。そして『心開眼』はこの化石以後の流れのなかで生まれた句集であった。「雲」同人でカトリック教徒の杉浦強が全生園で俳句の指導を始めたのが一九五五年のことであり、その活動が七〇年代に入って『心開眼』としてまとめられたのは、だから決して偶然ではあるまい。

さて表題句であるが、作者の宇田川涙光は同書によれば一九三二年に「ホトトギス」へ投句をはじめ、同書刊行の二年前には喜寿をすませたというから、『心開眼』の書き手のなかでも最古参のひとりであろう。涙光の作品(「も一人の吾」)には境涯詠の色彩を帯びたものが少なくない。

 点字探る舌が狂ふや雪解音

 眼こ一つ落ちて石たり雪だるま

 悲話こびりつく瓶洗ふ実梅どき

 秋風や義眼に我名刻まれゐて

とりわけ、表題句の書かれた一九六九年には死を詠んだ句が多い。

 王将一つ棺に納めぬ 冬銀河

 凍蝶をくすぐる日差 癩者死す

 君逝きて躄る白雲 寒明けぬ

俳句部の氏家孝は巻末で次のように書いている。

  癩が癒る病となって、今日まで多くの者が社会に復帰してゆきました。私共は後遺症のために、このように華やかな復帰を望むべくもありませんが、ここを墳墓の地として意義ある人生を送りたいと願って居ります。(「感謝の言葉」)

ハンセン病の特効薬であるプロミン治療が日本で始められたのは一九四八年のことであるという。しかし氏家は全生園のなかでも「復帰」のできなかった側の人間であり、涙光もまた同様であった。そのような涙光が全生園で死者を見送るとき、その死は誰よりも自分にとって親しく切実なものであったろう。そして全生園での死が親しいものであったのと同様の意味において、生もまた彼に親しいものであった。

 死に下手の命 不作の梅漬くる

消去法で生を語るようなこの諧謔は、ときに自らの生への痛々しいまでのまなざしへと反転することもある。

 来るなと書き破り棄てたり蕗のとう

 植眉見えぬ運命や目貼り探り剥ぐ

こうしたまなざしは、たとえば涙光たちについて次のように書く杉浦には想像もつかないものであろう。

  全生園の兄弟には失礼だが、私はいつも囲いの中を「地上の楽園」と呼んでいる。彼らに肉体的な再起、社会復帰の問題が山積みされていることは確かだが、隔離されているといえ、現代の巨怪なシステムに押し流されない素朴さ、単純さ、精神の純化を見るのである。(「あとがき―俳句は祈りの結晶―」

涙光には「陸の島に五十年せ病むや欅の芽」もある。園での暮らしがその生涯のほとんどを占める涙光にとって、「外」への呼びかけは、「来るなと書き破り棄てたり」というごとく断念と求愛とを交錯させながら、自らの生のありようを照らし出すものとなる。「一人居て一人の浄土」とは、決して諦念や悟りの境地などを指すものではなく、ましてや「楽園」に住む者の境地の謂でもあるまい。この句からはそのようなゴール地点としての浄土のありようではなく、むしろ他者とのつながりを求めてやまない涙光の、その断念と求愛のないまぜになった生の営みの果てにこのような場所に辿りついた過程こそが思われるのである。そして僕は、いくつもの断絶を経てきた涙光が「一人の浄土」とあえて言い切ったことに、いわば死者と自らとの間を断ちつつ接続させていくような架橋の営みとしての―換言すれば断絶のなかでそれでも他者と繋がってゆくための切実な営みとしての―表現行為の跡を見るのである。