合同句集『鷺草』(一九八三)の一句。奥付の発行所には鷺草会の石崎正一の名と住所があるだけで、ごく小規模の範囲にのみ流通した句集であることがうかがえる。同書は「鹿火屋」同人の山田青秋が指導する成人講座「俳句入門」(世田谷教育委員会主催)の第一回(一九七五年)・第二回(一九七六年)受講生のうち、同好の士が集まってできあがった世田谷俳句クラブ(鷺草会)と、やはり山田が指導する婦人講座(一九七九年)から生まれた世田谷俳句会(けやき会)による合同句集である。鷺草会会員三一名とけやき会会員の二一名、および山田の自選二五句がそれぞれタイトルを付して掲載されている。石崎の「あとがき」によれば鷺草会発足五周年を記念しての刊行であったという。当時の、いわゆる社会教育の浸透しはじめた雰囲気なかでこうした俳句講座は数多く開かれていたことだろう。『アサヒグラフ』が「女流俳句の世界」と称する特集を組んだのは一九八六年(七月号)のことであったが、その座談会記事(出席者は細見綾子・野澤節子・稲畑汀子)のなかでもカルチャーセンターの俳句講座の功罪が無視できないものとしてとりあげられている。
俳句に携わる女性の増加がこうした俳句講座の誕生と深い関わりがあることは夙に知られているところである。そしてそうした講座から生まれた記念句集も無数にあったはずであり、そのような句集は当時の時代状況を知るための具体的な手がかりの一つなのだが、今日においてはきわめて入手困難になってしまった。余談だが、こうした句集には図書館に所蔵されていないものも多いはずで、また古書店においても粗雑な扱いを受けているケースが少なくなく、受講者の身内が保存しない限りほとんどが近いうちに散逸するものと思われる。無数に世に出たはずのこうした句集の共有や、その全体像を俯瞰するためのアーカイブの構築など不可能にちかく、戦後の俳句史を考えるうえで重要な作品群のひとつを僕たちはいまにも失おうとしている。欲張ったことを言えば、お持ちの方がいるなら是非お譲りいただきたいのだが、それが無理ならせめて処分だけでも思いとどまっていただきたいと切に願っている。
とはいえ、こうした句集が入手困難になってしまったのは、ある意味では当然であろう。たとえば『鷺草』の序文で山田は次のように書いている。
この句集「鷺草」―もちろん世に問う、と云ったものではないが、ともあれ、ここまで成長した成果のほどをまとめよう、と会員皆が二十五句を自選し、それを編集したものである。
両句会とも毎月ウイークデーに開かれている関係もあり、会員は圧倒的に婦人(主婦)が多い。
もちろん、これは男性も含めてのことだが、この人たちが、日常の折々、あるいは旅行に行った時など、心に触れたもの、目に映ったものを―しかも季節のうつり変りの中の―十七音に託して詠みつづけてゆく、ということは本当に有意義で素晴らしいことであると思う。
「世に問う、と云ったものではない」句集を「俳句史」はほとんど相手にしてこなかったし、山田の書きぶりからは『鷺草』の書き手たちもまたそれを当然のこととして受けとめていたであろうことがうかがわれる。それにしても面白いのは、『鷺草』が結果的に世に問うほどの句集ではなかったということではなくて、はじめから世に問うことをしない道を選びとっていたということである。自らの表現行為に対してこれほどまでに自覚的な営みは、そうはあるまい。
ところで、彼らの営みについて考えるときさらに興味深いのは、彼らの作品自体は「世に問う、と云ったものではない」にもかかわらず、その表現行為については山田が「有意義で素晴らしい」と称賛していることである。これは山田に限ったことではなく、すでに虚子が大正時代に次のように述べていた。
常に家事に煩はされてゐる一家の主婦、健康の為めにおどおどしてゐる病人、老人、又は其日々々の生活に追はれ、人間仲間の激烈の競争に苦しめられてゐる青壮年の人々、それらの人々がすべて此俳句によつて四季のうつりかはりの上に興味を見出す様になつたならば、それらの人々は恰も宗教が人に安心立命の地を与へるやうに、又た此世に処して行く上に一種の慰安と興味とを見出し得る事になる。これは人生に対して少くない功徳であると思ふ。かう云ふ立場から考へると、俳句が上手とか下手とか、自分が作るとか作らぬとか云ふ事は末の議論であつて、上手であつても下手であつてもいゝ。作つても作らなくてもいゝ。俳句と云ふものを味ふことさへ出来ればいゝ。俳句を通じて四季のうつりかはりの上に、興味を持つ事さへ出来ればいゝ。と云ふ事になるのである。私はこの趣味に立脚しようとする一個の宗教、又た趣味を基礎とする一個の教育の上に重大な意義を見出すものである。本誌に婦人欄を設けてゐるのも、全くこゝに基づく事である。(「春夏秋冬の移りかはりの趣味」『ホトトギス』一九一八・九)
『ホトトギス』に女性のための俳句欄「婦人十句集」が設けられたのは一九一三年のこと。この文章はその五年後に書かれたものである。虚子が「婦人欄」を設けた事情を語るなかで「俳句が上手とか下手とか、自分が作るとか作らぬとか云ふ事は末の議論」といい、また「教育」の語を用いていることは戦後の「俳句講座」をめぐる言葉との不思議な符合を思わせる。僕たちはきっと、何を書きとめえたかということだけでなく、(むしろそれ以上に)書いているということ自体にも意義があり、さらには書くという行為を含む自らの生のありように喜びを見出すことがあるのだ。そうでなければ、たとえば『鷺草』の参加者の一人である松尾瑛子が「生活」と題して発表した次の句の楽天的なたたずまいの前に、僕たちは戸惑うばかりであろう。
家計簿の決算すみて梨をむく
名月や子と語らひの時をもつ
日脚伸ぶ丈の伸びゆく子のズボン
さて、表題句に話を移してみると、この句に見られるのは、たとえば放哉が「墓のうらに廻る」で見せたような対象に没入するかのごとき態度とは対照的なそれであろう。「幇間」とその「いわれ」を「読む」者との間に引かれた一線は、ついに越えられることがない。そして後者は「幇間」に畏怖もしなければ自らの生をおびやかされることもあるまい。しかし、そのような場所に立つ者を否定するのは安直にすぎよう。川名大は『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房、二〇一〇)で「作家は所与の社会的、身分的な環境の中で、所与の資質を充分に発揮すればよい」という志賀直哉の言葉を引き「中村汀女の第一句集『春雪』(三省堂・昭15)と、その背景としての彼女の生活や人生に思いをいたすとき、浮かび上がってくるのは、この志賀の言葉である」と述べたが、川名が汀女への安易な批判を斥けているように、僕もまたこの句に対して慎重であろうと思う。汀女のように、何かを書かないことをもってはじめて書ける句もあるのだ。そしてこのことは汀女や掲句の作者の限界を示しているだけはなく、僕たちの表現行為の本質をも示唆してはいなかったか。
思うに、そのような僕たちの書く行為の価値は、他者による無数の書く行為のなかにあってはあるいは相対的にやりかたで値踏みをされてしまうかもしれないが、一方で彼や彼女自身のうちにあっては―あるいは僕たち自身のうちにあっては―どこまでも絶対的な価値を有するのだと、僕たちはひそかに信じてはいなかったか。その意味では、この句を前にした僕たちがもしも放哉の表現行為との比較においてこの句を生み出した営為を否定するのであれば、それは、僕たちが秘密裡に僕たち自身に対して許してきたはずの、自らの表現行為の値打ちへの無闇な信頼の自壊を覚悟したうえでの否定でなければなるまい。