慶應看護婦俳句の会『合同句集 水仙花』第二輯(北千束俳句会、二〇〇三)の一句。石原八束の主宰する「秋」に所属する平原玉子が慶応病院の婦長たちの句会を指導することになったのは一九七六年のことであった。この句会が慶應看護婦俳句の会である(その後「北千束俳句会」に改称)。いわゆる職場句会のなかでも、女性だけで構成されていた同会は珍しいものであろう。一九八六年に一〇周年を記念して『水仙花』の第一輯を刊行しているが、今回とりあげる第二輯は二五周年を記念して刊行されたものである。第一輯以後の一五年間の動向について平原は次のように述べている。
婦長さんの会であるから永い間には皆さん次々に退職したり、自身の都合で辞めたりで第一輯の参加者は十三名であつたが今まで続けてゐる人は六名である。(「序にかえて」)
第二輯参加者のなかにも退職者がいるようだが、一九九〇年代に退職の時期を迎えている彼女たちは、その多くがいわゆる「昭和ひとけた」前後の世代にあたるのだろう。
ただ優しあの夏の日の大人たち 古山智也子
這つてでも行きしにと母の敗戦忌 前田照子
古山の句は「敗戦の昭和二〇年八月一五日、汽車に乗っていた我は九歳」と前書された連作の一句。前田の句には次の文章が付されている。「兄は終戦の年の五月、台湾沖の航空戦にて全身に火傷を負い、漂流中を助けられて別府の病院に後送され、五日間は生きていたという。母は五日も生きていたのなら、地続きなのだから這ってでも行ったのにと嘆いた。交通路も絶たれていたのである」。
こうした句を、彼女たちはおそらくわがこととして受けとめることができていたのではなかろうか。それはまた、彼女たちの共有する「看護婦」としての生活を詠んだ句においても同様であったろう。
泣きつづく患者と居りし冷房裡 古山智也子
花万朶涙で応ふ失語症 内藤寿喜子
ひたすらに看とるほかなし水澄めり 桑原なつ子
同会のメンバーの一人、前田照子は「あとがき」で次のように書いている。
当初は全員が看護の最前線にいて、病院という特殊な環境の中でいろいろの場面に遭遇し、人間の深淵や苦悩に触れ、自らもその対応に苦悩することが多かった。未熟な私たちは、俳句のいろはもよく解らぬままに、それらを句にする傾向があったと思う。
彼女たちは「病院という特殊な環境」のなかで、医師のそれとも患者のそれとも異なるまなざしをもって次のようにも詠んでいる。
淡々と告知す医師の首の汗 古山智也子
コスモスやふっとなごめる外科医の眼 内藤寿喜子
内科医の歩幅ゆつたり冷房裡 桑原なつ子
こうした句のなかにあって、次の句はやや異質である。
意識なきひと夕顔ほどに美しき 阿部八重子
同書には「意識なき眼から涙や冴え返る」(桑原なつ子)もあるが、源氏物語の悲恋を引き寄せることで「意識なきひと」のさまを美的なそれへと転じていく阿部の句は、阿部自身の美意識だけでなく、このような意識が共有されうる彼女たちのコミュニティの性質をも示唆していよう。同書には彼女たちが共有している既知の表現をふまえた作品がみられるが、たとえば「月昇る「夜光の杯」に酌む別離」(前田照子)のように王翰の「涼州詞」を明確にふまえている句もあれば、同じく前田の「明日は嫁ぐ娘がコスモスの中に揺れ」のように歌謡曲の一節が想起できるような句もある。しかしながらなにより注目すべきは「意識なきひと」を見出したそのまなざしのありようであろう。それは換言すれば、「淡々と告知す」る「医師」の姿を見出した医師以上に冷静なまなざしであり、あるいは「泣きつづく患者」に対して共に「居」ることを選択する自らを見出すことのできるまなざしであった。
ところで、この一五年間とは彼女たちにとってその家族との自らとの関係に小さからぬ変化のもたらされた年月の謂でもあった。
父の五年後に母逝く
父と母同じ命日雪の通夜 前田照子
母逝く享年九十二歳
大往生の餅つく秋や猟師町 古山智也子
母を詠んだ句は同集に少なくないが、「かねがね心に懸りし故郷の母老い深みゆくにこれを守らんと退職す」と題する二七句をもつ桑原なつ子の作品「銀河まで」からは、とりわけその私性が色濃く立ちのぼってくる。
世間体ふり切るまでやふらここ漕ぐ
一三九句で構成された「銀河まで」は、おおよそ制作年順に句が配列されているようである。「世間体」の句は「銀河まで」の冒頭に置かれている。「呑み込みしことば逆巻く天の川」「同年の女優の醜聞木の葉髪」といった句が続く。たとえば「世間体」の句から三橋鷹女の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」を想起するのはそれほど難しいことではないように思われるが(桑原には「ふらここや愛に似しものたぐりをり」の句もある)、どこか表現への欲求ばかりが先走った空回りの印象がある。しかしそうした前のめりの句を辿っていくうちに、やがて次の句に行き当たるのである。
独り啜る年越蕎麦や夜勤終へ
菊日和永年勤続者の群れに居り
夫と死別し図書館で勤務していた竹下しづの女はかつて「汗臭き鈍の男の群に伍す」と詠んだ。しづの女が男にまじって働きつつそれを「鈍の男の群」と喝破してから半世紀以上の後、「看護婦」として働く自らを「永年勤続者の群れ」のなかに見出したこのような句が生まれたということ、そしてそのおだやかな詠いぶりゆえに桑原の生き難さがいっそう深刻な趣をもって迫ってくることを僕たちは見逃してはならないと思う。
春泥や「痴呆」とありし診断書
「銀河まで」の末尾には前掲「かねがねに心に懸かりし故郷の母の老い深みゆくにこれを守らんと退職す」の前書をもつ二七句が並ぶ。桑原には「極度の疲労による心身の不調にて入院」と前書された七句もあるが、そのなかで「母の在る安堵湯タンポ抱いて寝る」と詠んだ桑原である。このような桑原のありようを思うとき、平原が記した「自身の都合で辞めたり」といういかにも簡潔な言葉について―そして彼女たちのコミュニティのこの一五年間について―僕はついに何もわからないのではないかという諦念とおそろしさにかられるのである。