【16】ますらをの首途送るか梅の花     穴沢利夫

特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編『特攻隊遺詠集』(PHP研究所、一九九九)の一句。同書は出撃に際し特攻隊戦没者が遺した辞世の詩句を編んだもので、慰霊祭や法要の際に「献吟」として朗詠してきたものにくわえ、未発表作を収録して一書としたものである。中心となっているのは短歌で、他に俳句、漢詩を収めている(自由詩、隊歌は割愛)。

僕は、たとえば「次の世代の目にもふれる僥倖」をもちえた少数の特攻隊員の遺稿について、それを「彼らの遺稿の背後には百人、千人単位の思いや訴えが凝縮していると考えるべき」「一人の遺稿はときに戦死者すべての訴えを代表していると考えてもよい」とするのは違うと思う(保阪正康『「特攻」と日本人』講談社現代新書、二〇〇五)。それは「彼らの遺稿」にそれだけの価値がないと考えるからではない。戦死者の思いや訴えを「百人、千人単位の思いや訴え」というふうに大掴みにとらえてしまうことに躊躇するからである。たとえそれが戦死者共通の思いや訴えを含んでいようとも、それでもやはり僕はそうした思いや訴えはどこまでも個人の名とともにあるべきものだと思う。そうでなければ、たとえばなぜ安田武が自らの戦争体験について語り続ければならないのかが僕には理解できなくなってしまう。

 ところで、ぼくが、いま不しあわせでないのは、あの時、ホンの一〇糎ほど左の方に位置していたからなのだろうか。ソ連の狙撃兵が、ぼくではなく、Bを狙ったからであろうか。それとも、八月一五日に、敗戦がきまったからであろうか。(『戦争体験』未来社、一九六三)

ソ連軍との交戦のなかで友人を失った安田はこう自問する。安田の苦しみは人間の生死が偶然性に左右されうることを知ってしまったゆえの苦しみであった。偶然性によって左右されてしまった死者は、だからこそその名を呼ばれることでその尊厳を守られねばならないし、そうすることで生者としての安田自身の尊厳もようやく守られるのである。だから僕は、シベリアでの抑留中に出会った死について石原吉郎が記した次の言葉に僕は強く共感する。

私がそのときゆさぶったものは、もはや死体であることをすらやめたものであり、彼にも一個の姓名があり、その姓名において営なまれた過去があったということなど到底信じがたいような、不可解な物質であったが、それにもかかわらず、それは、他者とはついにまぎれがたい一個の死体として確認されなければならず、埋葬にさいしては明確にその姓名を呼ばれなければならなかったものである。(『望郷と海』筑摩書房、一九七二)

石原はまた、次のようにも記している。

私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。(同前)

遺稿と向き合うということは、一人の死者の姓名と向き合うということであろう。そしてそれはついに向き合うことのかなわない死者の無念と対峙するということでもあろう。そのような局面において、僕たちはどうすれば僕たちなりの読む行為を全うできるのだろうか。

あらためて表題句に戻ろう。この句には「婚約者、伊達智恵子さんあての遺詠」という注が付されている。作者の穴沢利夫(少尉、陸軍特別攻撃隊(第二〇振武隊))と穴沢の婚約者であった伊達智恵子については水口文乃が伊達への取材をもとに記した『知覧からの手紙』(新潮社、二〇〇七)に詳しい。それによるとこの句は穴沢が一九四五年三月に三重県亀山の北伊勢飛行場から大分海軍飛行基地へと発つ際に詠まれたものであるという。周囲の反対にあいながらも二人がようやく婚約にこぎつけたのは、穴沢が亀山を離れる三日前のことであった。大分に移動したのは特攻隊としての最後の訓練を受けるためで、その後都城に移動、同月二七日には知覧へ移っている。そして四月一二日、一式戦闘機で発進した穴沢は沖縄周辺の海上で亡くなった。穴沢はいくつもの歌句を遺しているが、亀山でも「梅が香に小径たどれば海開く」「梅日和茫洋として瀬戸の海」と詠んでいる。また出撃三日前の日記には「万葉を読みたし。詩を読みたし。」という文面が見られるが、さらに「読みたき本」として『万葉集』、高村光太郎『道程』、三好達治『一点鐘』、大木実『故郷』とともに「芭蕉句集」が挙げられている(穴沢はその遺書においても「読みたい本」として同じ五冊を挙げている)。表題句はこうした穴沢の文学的な素養のなかから生まれたものであった。

『特攻隊遺詠集』は大半を短歌が占めているが、俳句も数句収められている。そのなかにあって穴沢の句はやや異質である。

決戦に征くる心や秋の空                         勝俣静逸

花は咲き実は永劫に結ぶ那れ                      樋野三男雄

潔く散れや筑波の若桜                           末吉実

散るときが浮かぶ時なり蓮の花                    山本三男三郎

靖国で会う嬉しさや今朝の空                       古野繁実

国のため散るさやけさや今日の空                      福田斉

出で立つや心もすがしるりの色                      亥角泰彦

穴沢の句は出撃に際して自らを奮い立たせるようなものでも、何か達観したかのような境地を示したものでもなく、どこか感傷的でさえある。それは穴沢の句が送られる側としての自身だけでなく送る側へもそのまなざしを向けているためであろう。出撃の前日の日記に「ふるさとに今宵かぎりの命ぞと知らでや人のわれを待つらむ」と記し、遺書に「智恵子 逢いたい、話したい、無性に」と記した穴沢である。だが、穴沢は次のようにも詠んでいる。

粉と砕く身にはあれどもわが魂は天翔けりつつみ国まもらむ

表題句を読むためには、穴沢のもつこうした二面性をふまえておくべきだろう。『知覧からの手紙』には穴沢がどのような語彙のなかを生きていたのかを示すいくつかのエピソードが見られるが、たとえば中央大学卒業を前にして当時「陸鷲」と呼ばれた陸軍航空隊を志願していた穴沢は、入隊が決定した直後に伊達への手紙のなかで次のように書いている。

万葉集にこんな歌がありました。

「ますらをと思へる吾や水茎の水城の上に涕拭はむ」

 かつてなかった喜びに言い現すべくもない気持でありながら、僕は今、この歌と同じ気持を味わっています。

 でも僕は安心して行くのです。

 僕が唯一最愛の女性として選んだ人があなたでなかったなら、こんなにも安らかな気持ちでゆくことは出来ないでしょう。(略)

 僕は今、あなたとの交わりをひとつひとつの思い出でもって、生き生きと甦らせようとしています。あなたが〝グラジオラス〟を持って来て、図書室の花瓶に生けてくれた日の夜、僕は誰もいない部屋でそれを写しました(同封します)。

万葉集は当時の青年の愛読書の一つでもあり、二人も万葉集の歌について語り合うことがあったという。入隊に際して穴沢が引いたのは「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ」でも「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は」でもなく「ますらをと思へる吾や水茎の水城の上に涕拭はむ」であった。やがて一九四三年一〇月一日に特別操縦見習士官一期生として熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊する穴沢は、翌年三月の卒業後に伊達の実家を訪れている。久しぶりの対面となったこの日のことを伊達は次のように回想している。

「何しろ短期間の訓練。技で劣るとはいえ、精神では断じてひけは取らぬ。我々がある間は必ず勝ってみせる」

 今まで聞いたことのない利夫さんの強い口調に驚き、思わず顔を見ると、清らかでありながらも厳しく、心に迫るものがありました。(略)

 利夫さんが去った後、お座敷を片づけようと、火鉢の前に膝をついて何気なく中を見ると、彼が吸っていた煙草の吸殻を見つけました。この日、私は利夫さんが煙草を吸う姿を初めて見たのです。人差し指と中指をまっすぐ伸ばして煙草を挟み、口元に持ってきた手を、腕を伸ばしたまま火鉢に戻して灰を落とす動作が、あまりにぎこちない。彼の口から出る強い信念とは裏腹に、軍隊で煙草を覚えたことに違和感を感じたのを覚えています。

その後穴沢は台湾を経て大阪の柏原にある第二六四部隊に転属するが、穴沢を訪ねた伊達はこのとき、柏原の訓練兵の集会所で「学徒空の進軍」や「燃ゆる大空」といった「勇ましい軍歌」が「ガンガンワンワン大音響で流れ出して」いることに気づく。やがて穴沢を亀山に訪ねた伊達は穴沢の自室で『万葉集』や『古事記』などが並ぶ本棚を見て、今度は穴沢が「精神的には大阪よりもずっと豊かな生活を送っていること」を知るのである。だが部屋を出て縁側に出た二人は、穴沢がふいに口ずさんだ「学徒動員の兵士たちの心情を表した歌」、すなわち「ああ紅の血は燃ゆる」をともに歌っている。

「ああ紅の血は燃ゆる」(作詞野村俊夫、作曲明本京静)

花もつぼみの若桜

五尺の生命ひっさげて

国の大事に殉ずるは

我ら学徒の面目ぞ

ああ紅の血は燃ゆる

後に続けと兄の声

今こそ筆を投げうちて

勝利揺るがぬ生産に

勇み立ちたる兵ぞ

ああ紅の血は燃ゆる

君は鍬とれ我は鎚

戦う道に二つなし

国の使命を遂ぐること

我ら学徒の本分ぞ

ああ紅の血は燃ゆる

何を荒ぶか小夜嵐

神州男児ここに在り

決意ひとたび火となりて

守る国土は鉄壁ぞ

ああ紅の血は燃ゆる

表題句はこうした語彙のなかに身を置いた穴沢が、その一方で伊達への思いをはせるなかで生まれたものであろう。それはまた、図書館でアルバイトをしていた一人の文学青年が「陸鷲」の一員としての身体をぎこちなくも自らのものにしていくときに生まれた句でもあった。「首途」を「送る」かのようにみえた「梅の花」とは、万葉集に親しみ芭蕉に親しんできた人間のまなざしこそが見出したものであったにちがいない。そしてまた、恋人が持ってきたグラジオラスをひそかに写生する人間の手であればこそ手繰り寄せることできたものであったにちがいない。

だが、僕はここまで考えて、ふと不安に駆られるのである。このような読みかたはとても美しい想像を呼び寄せる。その美しさは表題句に「婚約者、伊達智恵子さんあての遺詠」という注を付した注釈者が期待していたそれであろうし、『知覧からの手紙』の書き手や伊達自身が期待していたそれであろう。逆に言えば、その美しさは両者への検証や批判なしに行われる読みにおいてはじめて立ちあがる美しさなのである。このような不用意な追従によって成立する美しさなどに価値はあるのだろうか。

結論から言えば、僕はあると思う。こうした、いわば身勝手を承知であえてそこに身を投じていくような読みのなかで成立する美しさもあると思うからだ。そして、そのような傲慢な読みにこそ誠実さが宿ることもあると思うからだ。

成田龍一は岡山県の甲浦村における空襲にまつわる数々の証言を検証した日笠俊男『B-29墜落―甲浦村一九四五年六月二十九日』(吉備人出版、二〇〇〇)に言及するなかで次のように述べている。

個人の切実な経験は、しばしば思い込みをも含む記憶として語られる。その経験者のかけがえのない想いに身をはせながら、それを「証言」として確定し空襲像を形成するために、いかなる検討が必要かの試行がなされている。(成田龍一『「戦争経験」の戦後史』岩波書店、二〇一〇)

ここには特攻のみならず戦争にまつわる数々の「語り」をとらえるうえでの困難が端的に示されているように思う。伊達の「証言」にしても思い込みを含んでいないとは言い切れない。表題句についての先の読みにしても「経験者のかけがえのない想い」を突出して尊重することによって成立する読みであった。そのような読みは、先の石原の言を借りれば、死者を「埋葬」するときの僕たちの目つき手つきがいかなるものであるのかを暴露するものであろう。僕たちの目つきも手つきも、きっといかにも傲慢なものであるにちがいない。しかし、それでもその傲慢さのなかに身を投じようとするならば、そこにはいくばくかの誠実さが宿りはしないだろうか。僕は『特攻隊遺詠集』のいかなる注釈も『知覧からの手紙』のいかなる記述も傲慢だと思う。そして僕もまたその傲慢な「埋葬」に加担した一人であろう。しかし「穴沢利夫」とは、いまのところ、そのようにして「埋葬」されるほかない死者の謂であって、そうであればこそ僕はその傲慢さのなかに身を投じる行為に誠実さを見るのである。