2013年10月20日

『攝津幸彦選集』溶けつつ汽笛発しけり

攝津幸彦(1947~1996)の作品については、割合熱心に読んでいたという記憶がある。
この作者の存在を知る契機となったのは、おそらく小林恭二『実用青春俳句講座』(ちくま文庫 1999年)であったはず。

当時は、多くの俳人たちの高評価にそのまま追随するかたちで読んでいたところがあるが、そういった地点からいくらか距離のできた現在の自分の目から、改めてその作品を眺めてみた場合、一体どのように見えるか。

そのようなことを考えながら、『攝津幸彦選集』(邑書林 2006年)を久し振りに繙いてみた。
はじめからかつての所謂「前衛」的な作風をそのまま感じさせる作品が並び、正直なところ、以前の自分はこういった難解なものを平然と読んでいたのか、と少し驚く思いのするところがあった。
おおよそ意味性というものが句の埒外に放擲され、いうなれば「言葉のアクロバティック」によって1句が生成されている。
ただ、きわめて難解であるのはおおよそ最初のあたりまでで(『姉にアネモネ』、『鳥子』)、歳月の経過と共に、その表現は徐々に洗練されてゆくようである。

一応、今回の選句集を通読してみて、気が付いた点をいくつか挙げてみたい。
まず、攝津幸彦の句業において終始一貫しているのは、言葉遊び(ひねり)の要素であり、やはりそれが大きな特色のひとつとなっている。

そして、もうひとつの大きな特徴としては、液体などといった、なにかしら「ウェット」な質感を伴った作品が、驚くほど数多く確認できる点となろう。

みごもりの厨に敵の蜜たらす      攝津幸彦

濡れしもの吾妹(わぎも)に肝(きも)にきんぽうげ

花疲れ蝸牛(ででむし)われをなぞるなり

水に水逢うてまじりぬ別れかな

三島忌の帽子の中のうどんかな

階段を濡らして昼が来てゐたり

自動車も水のひとつや秋の暮

急雨の桜山即桜鯛

雲呑は桜の空から来るのであらう

液体のやうな蔵書の昼の愛

一応、そういった作品の一部をここに取り上げてみたが、どうやら攝津幸彦という俳人の根幹をなしているのは、このような水(液体)にまつわる感覚なのではないか、という気がする。作品によっては、それこそ固体でさえも、液化させようとする傾向性まで見て取ることができよう。

あと、もうひとつ重要なポイントとして、「悠久への意識」とでもいうべき、なにかしら遥かなるもの、もしくは永遠なるものを希求しようとする意志が少なからず確認できるようである。

ことにはるかに傘差し開くアジアかな    攝津幸彦

千年やそよぐ美貌の夏帽子

曙や屋上の駅永遠に

太古よりあゝ背後よりレエン・コオト

天心に鶴折る時の響きあり

露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな

永遠にさそはれてゐる外厠

蛇口にて水束ねらる寂光土

荒星や毛布にくるむサキソフォン

糸電話古人の秋につながりぬ

いずれも、どこかしら「ここではない世界」への憧憬のようなものを感取することができるであろう。こういった作品の存在も、攝津幸彦の句には少なくない。

ともあれ、攝津幸彦という作者は、完成度の高い句を書く優れた俳人であり、それは残された作品を見ても明らかであろう。そして、その表現は、歳月とともに円熟味を帯びつつ最後まで高いクオリティを保ち続けていた。
作品の完成度の高さについては、本人も評論において記述しているように、秀句への明確な意識があったとのことである(他に『飯田蛇笏全句集』についての記述も存在する)。
また、それのみならず、「恥ずかしいことだけど、僕はやっぱり現代俳句っていうのは文学でありたい」(1996年)、「静かな談林」(1994年)などといった発言の存在にも注目すべきであろう。
俳句に対する「恥ずかしいけど文学でありたい」という思い、そして、単なる談林ではなく「静かな談林」という独自のテーゼ。
結局のところ、あの「俳句ブーム」のさ中にあっても、攝津幸彦という俳人を支えていたのは、おそらくこういった俳句作者としての矜持だったのではないか、という気がする。