正宗得三郎『ふる里』(人文書院、一九四三)の一句。著者の正宗得三郎は作家の正宗白鳥の弟であり、兄弟には他に国文学者の敦夫、植物学者の巖敬などがいるが、得三郎自身は画家であった。本書はその正宗得三郎の随筆集である。正宗は初め日本画をまなび、後に洋画に転向、大正時代に二度渡欧している。本書にも渡欧時の回想として「ルノアル翁の画室」が収められている。
さて、表題句は「国上山」と題する一文の中に掲げられたものである。本文によれば、展覧会出品のために写生地を探していた正宗が柏崎の知人を頼って越後入りを計画したものの、当の知人が出雲崎に転居していることを知り、急遽出雲崎を訪問することになったということらしい。この知人を介して正宗は良寛の遺跡や遺墨に触れている。この知人は熊木といい、正宗は「和田辺の阿部定珍の家から出た人」と紹介しているが、阿部定珍といえば当地の庄屋であり良寛の支援者の一人として知られた人物である。出雲崎が良寛の出生地であることさえ知らなかった正宗は熊木を介して正宗は良寛の遺跡や遺墨に触れている。良寛の住まいであった五合庵のある国上山を訪れた際も熊木が案内役となったのだが、これが機縁となって正宗は良寛の墨跡を入手している。正宗はそれを「日本紙の障子紙風のものであるが仲々風情があり、乙子神社草庵時代の筆かと思はすもの」であると評し、そこに書かれた歌を紹介している。
ひさかたの雪気の風はなほ寒しこけの衣に下がさねせん
人はみな花の袂となりにけりこけの衣よかわきこそせよ
正宗はこの二首について「この歌は人より白たえの衣を贈られたときの歌となつてゐるが、後の歌はどの歌集にも見受けないが、この二首は対歌であり、花の袂は美しい立春の感じがしてよい」とも述べている。後者を「どの歌集にも見受けない」と書いているのは、正宗が良寛の歌集を繙いていたのならばもっともなことであって、この歌は遍昭の「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」の引き写しであろう。本書にはこの墨跡の写真も掲載されていてそこにはたしかにこの歌が見られるのであるが、仮に良寛がこの二首を対のものとして差し出したのだとすれば、たとえば古今和歌集の詞書にみられる「深草のみかどの御時に、蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを、諒闇になりにければ、さらに世にもまじらずして、ひえの山にのぼりて、かしら下ろしてけり。その又のとし、みな人御ぶくぬぎて、あるはかうぶりたまはりなど、喜びけるをききてよめる」といった文脈をこの歌から切り離して、新たな文脈に移しかえたものだということになろうか。
五合庵の前には句碑もあって、正宗は「たく程の風がもて来る落葉哉」をこの句碑に刻まれたものとして紹介している。もっとも句碑には本来「堂久保登盤閑勢閑毛天久留於知者可難」とあるので、「たく程は」ではなく「たく程の」としたのは正宗の記憶違いであろう。それにしても、正宗がこの句について次のように述べているのはどういうわけであろうか。
良寛の句として建ててゐるがこれは良寛の自作の句ではあるまい。所謂風流人が良寛の生活を斯くの如く考へて、つくつたものを刻したものだ。
先の句は長岡藩主であった牧野忠精が良寛を城下に招聘すべく訪れた折に、無言のまま良寛が差し出したとされている句である。良寛の父以南は著名な俳諧師であり、良寛がその影響を受けたであろうことは想像に難くない。この句については同時代の人であった与謝蕪村の「焚くほどは風がくれたるおち葉かな」とともにしばしば言及されているが、この二句がどのような経緯でこれほど似通っているのかははっきりとしない。ただ、夜半亭一世の早野巴人の句に「焚ほどは夜の間に溜る落葉哉」があり、両者はこの句を知った上での作であったと考えるのがとりあえずは妥当であろうか。
いずれにせよ興味深いのは、正宗がこの句を良寛の自作の句ではないと推定している点である。谷川敏朗によれば、良寛の句とされているもののなかに以南の作も混じっているということもあるようで(『校注 良寛全句集』春秋社、二〇〇〇)、先の遍昭の歌やこの句に限らず良寛作品の受容史は一筋縄ではいかないところがある。周知のとおり「良寛」の名は多くの逸話とともにある。実際、この句も牧野忠精と対面した際の逸話とともに伝えられているのである。とすれば正宗がこの句を良寛の作ではないとしているのは不可解であるが、面白いことに、正宗自身もまた「所謂風流人が良寛の生活を斯くの如く考へて、つくつたもの」という別のエピソードを付加しているのである。
五合庵の後、良寛は国上山のふもとにある乙子神社の草庵に住んでいるが、乙子神社境内には良寛没後に建てられた詩歌碑がある。一八五八年に建てられたこの碑は現存する良寛の詩歌碑としては最も古いものであるという。本書でもこの碑が紹介されている。
生涯懶立身
騰々任天真
嚢中三升米
爐辺一束薪
誰問迷悟跡
何知名利塵
夜雨草庵裏
雙脚等問伸
この詩では、名声や財産を求めずあるがままに過ごしてきた自らの生涯を振り返りつつ、雨の夜に庵で休む自らの姿を詠っている。
安散都久非無閑比遠可耳左遠志當天里閑美奈川幾之久礼能安女爾奴礼都々當天里
詩とともに刻まれたこの旋頭歌(朝づく日向ひの岡に小牡鹿たてり神無月時雨の雨に濡れつつ立てり)では、さらに雨の夜の草庵で足を伸ばす自らの姿から、「向ひの岡」に立つ朝の「小牡鹿」へと視点を移している。この歌は柿本人麻呂の旋頭歌「朝づく日向ひの山に月立てる見ゆ遠妻を持たらむ人し見つつ偲ばむ」を踏まえたものであろうか。この詩歌碑は良寛を追慕する目的で小川霞山と阿部定緝(定珍の子)によって建てられたものであるが、良寛による別々の詩と歌とが、その晩年を過ごした地に碑として刻まれることでまた別の文脈を引き寄せる。この碑から見えてくるのは、いわば自然と自由を愛し、一方で没後も慕われるほどに周囲から親しまれた良寛像である。実際、正宗は五合庵時代の良寛の生活について「自然を楽しみ五合庵は心や安らかな生活であつたであらう、五合庵では詩歌を作り、書を書き知人の来訪がなければ自然を友とし、又山を下つて里に出る生活であつたらう」と述べているが、こうした良寛像はこの詩歌碑からうかがわれるそれと通底するものがあろう。正宗が「所謂風流人が良寛の生活を斯くの如く考へて、つくつたもの」と述べているのも、こうした良寛受容と無関係ではあるまい。いわば正宗が、良寛の作ではないとしながらも誰のものともわからない句に目をとめたのは、その内容がいかにも「良寛らしい」ものであったからであり、のみならず、良寛ではない誰かが良寛を想起しつつ詠んだという、やはりいかにも「良寛らしい」挿話の付加を許すものであったからではあるまいか。