【57】禁煙を心に決めて去年今年     山下勇

山下勇『いさむ』(私家版、一九九五)の一句。
山下は三井物産造船部(三井造船)の社長、会長のほか、東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の初代会長を務めた人物である。技術者あるいは経営者としてその名を知られる山下だが、多趣味の人でもあった。本書巻末には日本経済新聞に連載された「私の履歴書」(一九八七・五・一~五・三一)の抜粋が転載されているが、それによれば山下が俳句を始めたのは公職追放の憂き目にあったことがきっかけのようである。山下が三井物産造船部に入社したのは一九三三年。戦後、三井財閥の解体や三井系の各会社の首脳陣が公職を追放されたことは、山下自身にも影響を及ぼした。一九四八年、当時玉野製作所の造機部長であった山下に追放令が下ったのである。部長職は解かれなかったものの、役員に就くことが出来なくなったため、追放解除になるまでの六年間は部長にとどまることとなった。当時を振り返って山下は次のように書く。

仕事の方はともかく帰宅して家内と顔を合わせると悶々として酒を飲むことも多くなるという追放の日々。四十歳になった二十六年に、一念発起して趣味を持つことにした。それも同時に六つをいっぺんにである。碁、生け花、お茶、俳句、書道。月曜から土曜まで、社員の中にもそれぞれの道の専門家がおり、碁と生け花などを除いて、その人たちを先生にして教わった。

このほかに南画も習い始めたようだが、後にスケッチと油彩に転向している。お茶と書道はあまり長続きしなかったものの、碁は日本棋院から五段の免状をもらい生け花は一生流の師範になったというから、熱心に打ち込んだようである。

俳句はずっと続けており、ホトトギス雑誌集に一句、例句として採用されている。
「門出でて母に振り向く春着かな」
まだ幼かった長女が、正月、晴れ着を着て門を出る一瞬の情景を詠んだものである。旅行に出るたびにスケッチし、そのわきに俳句を書きつけて日記代わりにしている。

「ホトトギス雑誌集」というのは『ホトトギス雑詠選集』のことであろうか。俳句も長年嗜んだ趣味のひとつであったようだ。一九九四年に亡くなるまでの四〇余年間で詠んだ俳句のうち、遺されていた句は約二千句。一九五〇年代~九〇年代にかけて俳句を詠みつづけた山下の句歴は、時代的にはほとんど戦後俳句史と重なっている。だが、ここで俳句表現史をもちだして山下の俳句表現の検証をするつもりはない。看過すべきでないのは、山下においては「碁、生け花、お茶、俳句、書道」というように並列されるものとして俳句が認識されていたということ、あるいは「旅行に出るたびにスケッチし、そのわきに俳句を書きつけて日記代わりにしている」という表現からうかがえるように俳句はスケッチとともに日記の代用物として認識されていたということである。
本書は二千句から抄出された一九九句が時代ごとにまとめられて編集されているため、山下のいう「日記」としての俳句の趣を味わうことができる。

漸くに肩揚取れし娘の春着    昭和二三~二九年
発表に母も小走り大試験     昭和三〇~三五年
孫の手をひいて愛でをり母子草  昭和四三~五三年
ひ孫の写真眺めて老の春     平成元~六年

こここでいう「娘」は山下の娘であり、「ひ孫」とは山下のひ孫であろう。「門出でて母に振り向く春着かな」という自句を山下が「まだ幼かった長女が、正月、晴れ着を着て門を出る一瞬の情景を詠んだものである」と解説したのは、山下にとって俳句とは折々の自分の記録の謂であったからだろう。そして山下の作品を読む限り、この認識はほとんど揺らぐことがなかったように思われる。
たとえばここで山下とほぼ同じ時代にあってやはり自らの生活を俳句に詠みつづけた林田紀音夫の表現者としての苦悩を引き合いに出して、山下の楽天性と表現者としての意識の低さとを批判することはたやすい。息子の忠は本書あとがきで父親が句集を上梓しなかった理由として「昔作った俳句は古くなって、残すほどの事もないなぁ」と話していたことを記している。これを、戦後の生活の変化にともなってかつてのように無季俳句が作れなくなり「まず、有季定型の作品がありそれを、あえて無季俳句らしく自身が添削して『海程』や『花曜』に発表していた」(福田基「林田紀音夫の俤 雑感風に」『俳句界』二〇〇八・六)という林田の痛切な思いと比較してみれば、山下における自句の来し方行方についての認識は、所詮表現者としての自らのありかたを揺るがすほどのものではなかったという意味で浅はかなものであったといえる。
だから山下の句は忘れられていくだろう。表現史を語るとき、山下のような書き手がいわば表現者としての意識の低い者として十把一絡げにされるのはやむをえないことだ。また、本書を読む限りにおいては山下の俳句表現を画期的なほど優れていると評価することはたしかに困難なのである。けれども、「俳句」とはより新しくより優れた「俳句表現」を目指すためだけに詠まれるものではない。それはもう少し多様な営みをともなうものなのである。少なくとも山下にとって「俳句」とは日々の記録であり、多様な趣味のなかのひとつを指している。

禁煙を心に決めて去年今年      昭和五四~六三年

これと同時期に詠まれた句に「良きことのあれかしとこそ去年今年」「老の身を浴槽に伸ばし去年今年」がある。日々のささやかな感慨を書きつけるという、それ自体ささやかな行為こそ、山下にとっての「俳句」なのである。