【58】江戸に見し辻行燈や子規  森鷗外

鵜月洋『宣伝文』(朝日新聞社、一九六一)の一句。

本書はその名の通り、宣伝文の歴史を繙きつつ同時代の広告についての批評や提言も行うというもので、「あとがき」で鵜月が述べているように、まだ「宣伝や広告に関する学問なり研究なりは、まだ新しく、不安定である」という状況の当時にあっては目新しい内容を含んでいただろうと思われる。実際、鵜月自身も専門は広告研究というよりは江戸時代の宣伝文や文学の研究にあった。

俳句と広告、といえば三越の広告をふまえて詠まれた「幾千代も散るは美し明日は三越」が思い起こされる。本書にも「今日は帝劇 明日は三越」についての記述があるが、鵜月は「明治・大正を通じて、一世を風靡した名スローガン・ナンバーワンである」ときわめて高い評価を与えている。

帝劇が、天下の人気と話題をさらって、にぎにぎしく開場したのは明治四十四年三月四日であった。話題の中心は、これまでの芝居小屋とちがって、全館椅子席の西洋式劇場であるということ、芝居茶屋の制度が全廃されて、誰でも自由に切符が買える仕組みになるということ、初めて女優が出演するということなどであった。(略)
だから三越にしてみると、いまや話題の中心であり、注目の的である帝劇の人気と結びつくことによって、三越の人気をいっそうあおりたてようというのが狙いであった。(略)
そのころは、日露戦争後の好景気の余波で、国民経済がふくれ、国民全体の生活水準が上がり、とくに都会生活者の消費生活がかなり派手に膨脹(ママ)していた。生活をたのしむゆとりができ、享楽的な風潮が、生活と風俗のすみずみにまでしみとおっていた。

さて、表題句であるが、これは一九一一年に宮崎直次郎が田端において開業した天然自笑軒の宣伝文の末尾に記されている。

蛙鳴く田端の里、市の塵森越しに避けて、茶寮営み、閒居のつれづれ、洒落半分に思い立ちし庖丁いじり、手まかせの向、汁椀、焼八寸、吸物と木の芽、花柚の口ばかりは懐石の姿はなせど、味は山吹の取立てて名物もなき土地柄ながら、濃茶薄茶の御所望次第、炉風呂の四季のその折々、花紅葉探勝のお道すがらあるは又山子規虫聞きなどの雅賞にも、広間、囲いの数を備え、御窮屈ながら茶事を省き、酒飯は時のあり合せ、ただ風流のおくつろぎを第一とし、詩歌、俳諧乃至書画、声曲の仙集にもあてさせられ給わんこと、これ亭主の本望とするところなり。電車の便も都ちかきこの郊外にこの寮あるは、世忘れの仙境これに過ぎたるはなしと、茶音頭とりて亭主にかわり、古き口上振を敬って白す。
この寮のお目しるしには
江戸に見し辻行燈や子規

これが書かれたのは明治末年の頃であると推測されるが、鵜月によれば当時は作家がこうした広告文を執筆するということが決して珍しくはなく、作家のネームバリューを利用するこの手の方法は広告戦略の一つであったという。
ここで興味深いのは、この宣伝文が書かれたのが先の「今日は帝劇 明日は三越」とほとんど同時期であったということである。ごく短いフレーズと派手な広告戦略で人々の関心をとらえようとする三越の宣伝文と「古き口上振」をもって格調高く語る自笑軒のそれとが併存したということは、ひとつには当時の宣伝文のバリエーションが豊かさを示していよう。そもそも鷗外が書いたものはいわゆる「引き札」なのである。久保田万太郎に、その名も「『引札』のはなし」という随筆があるが、そのなかに鷗外の書いた自笑軒の引き札の話が出てくる。

いまみると、「蛙鳴く田端の里」という書出しからしておもしろい。いまでこそ田端といふところ、大東京のなかに包含されて、どこをみても家だらけのきはめてせせツこましいところになつてしまつたが、わたくしがおぼえでも、大正のはじめごろまで、そのあたり一めんの田圃だつたのである。うそもかくしもなく「蛙鳴く田端の里」だつたのである。「花紅葉探勝のお道すがら」とあるのは、いふまでもなく、花は飛鳥山の、紅葉は滝の川、さうした江戸以来の名所を手近にひかへたからであり、「山子規虫聞きなどの雅賞にも」とあるのは、すぐその上をあがつたところの道灌山が、矢つ張むかしから、画だの文章だのに、夏、秋の、さうした風流を試みるの好適地とされてゐたからによらう。(「『引札』のはなし」『久保田万太郎全集』第一二巻、好学社、一九四八)

万太郎はまた「目じるしの辻行灯はいまでもしづかに点つてゐる」とも記している。句に詠まれたように辻行燈はこの店の看板代わりだったのであろう(なお、自笑軒は一九四五年の空襲で焼けてしまったため、いまはわずかにその跡を残すのみである)。江戸と呼ばれたかつての時代を想起させ、かつ「山子規虫聞きなどの雅賞」に適した場所としての自笑軒のイメージを、鷗外の句は無駄なく言いあてている。

こうした引き札をもって開店した自笑軒とはいかなる店であったのだろうか。宣伝文には「詩歌、俳諧乃至書画、声曲の仙集にもあてさせられ給わんこと、これ亭主の本望とするところなり」とあるが、自笑軒はしばしば文士の出入りした料理屋であったようだ。主人の宮崎直次郎の娘は芥川の異母弟である新原得二に嫁いでいるが、『芥川龍之介全集』(第二四巻、岩波書店、一九九八)の年譜には芥川がこの店を利用していたという記述がいくつも見られる。そもそも芥川が一九一四年に田端に転居したのも宮崎の紹介によるものであったようだ。芥川はまた塚本文との結婚した際の披露宴を自笑軒で行っているほか、芥川死後も河童忌の法要が自笑軒で営まれている。

ところで、「古き口上振」と鷗外がわざわざ念を押しているのは、自分が書いている宣伝文が昔ながらの引き札に記されるものであるという前提を意識していたからであろう。尾崎紅葉や山田美妙など明治期の作家たちが引き札の宣伝文を書く場合、江戸時代の引き札の文体を踏襲することがあった。鵜月は明和六年(一七六九)にえびすや兵助が始めた嗽石香という歯磨き粉の引き札がその後の引き札の模範・典型となったとしている。この引き札の宣伝文を書いたのは、兵助に歯磨き粉の製法と販売法とを伝授した平賀源内であった。

トウザイトウザイ、そもそも私住所の儀、八方は八つ棟作り、四方に四面の蔵を立てんと存じ立ちたる甲斐もなく、段々の不仕合わせ、商いの損あい続き、渋うちわにあおぎたてられ、あとへも先へも参りがたし。然る所、去るお方より何ぞ元手のいらぬ商売思いつくようにとお引き立てくだされ候はみがきの儀、今時の皆様はよく御存じの上なれば、かくすは野暮の至りなり。

源内の宣伝文はこうした調子で長々と続いていく。この宣伝文について鵜月は「戯文とか狂文とか読んでいいようなもので、じょうだんめかしたいいまわしのうちに、機知とユーモアと逆説が織りこまれ、遊びとゆとりにいろどられ、戯作気分の横溢した、洒脱軽妙な宣伝文」と評している。ここであらためて鷗外の宣伝文と比較すると、鷗外の宣伝文はむしろ江戸時代の引き札の典型であった戯文的な趣を廃し、必要事項を格調高くまとめていることがわかる。先の美妙や紅葉は戯文的な文体を踏襲していたが、それらに比べても、やはり鷗外のいう「古き口上振」とは、引き札の典型的な口上とは一線を画すものであった。

また、この鷗外の句については別の見方もできそうである。本書で鵜月はカルピスの宣伝文にも触れているが、大正期におけるカルピスの宣伝文の変化はまさにこの過渡期の様相の一端を示している。カルピスが発売されたのは一九一九年のことであった(なお鵜月は「『カルピス』が初めて市場にあらわれたのは第一次世界大戦後の大正九年十月であった」としている)。発売当初は「自強飲料」をキャッチフレーズとしていたが、まもなく与謝野晶子の「カルピス讃歌」が宣伝文として用いられるようになった。

カルピスは友を作りぬ蓬莱の薬というもこれにしかじな
  カルピスは奇しき力を人に置く新しき世の健康のため

この「カルピス讃歌」は、自笑軒の宣伝文と同様に、当時の著名な作家に宣伝文を依頼するという方法から生まれたものであった。ただ、鵜月はこの宣伝文について次のようにいう。

たしかに晶子は、一世にときめいた情熱の歌人であり、その名声は、大正の代になっても、依然として第一級のものであったが、しかし、短歌そのものが、ようやく欧風化してきた社会風潮と時代感覚とを表現するのに、ふさわしい形式のものではなくなっていた。いかに晶子が「新しき世の」とうたいあげてみても、一方ではやはり「蓬莱の薬」をひきあいに出し、「奇しき力を人に置く」という古めかしい表現をとらざるをえなかった。

こうした鵜月の短歌観に疑問がないわけではない。たとえば、ここでいう時代感覚とのずれは、短歌形式よりはむしろ晶子の作家としての力や性質のほうにその要因の多くをもとめるべきではなかろうか。とはいえ、カルピスの宣伝文が次のように変化していくことを思えば、先の鵜月の言葉は短歌についての当時の人々の認識のありようをある程度的確に言いとめているのではないかと思われる。

これは、新時代の新感覚派飲料であった「カルピス」には、どうも似合わない。「カルピス」には、もっとモダンで、シックで、若い世代向きのCMが考え出されてしかるべきであった。そこへ登場したのが、つぎの新体詩風なCMであった。
  乙女の肌 真珠の潤み 天花の芳香 仙薬の霊効 歌えよ 詩人! このカルピスを
 これは、甘美で詩的な調べによって、ムードをうたいあげたものであったが、人々に記憶され、愛唱されるためには、いかにも長すぎた。もっと短い、もっと印象的なうたい文句がほしい。「カルピスは初恋の味」の名文句がつくられたのは、その直後であった。

古めかしい「カルピス讃歌」から斬新な「カルピスは初恋の味」へ、という宣伝文の変化を思うとき、「今日は帝劇 明日は三越」という華々しい宣伝の傍らにあってあえて「古き口上振」をもって語り「江戸に見し辻行灯や子規」という俳句でその宣伝文を結んでみせた鷗外の本懐が見えてくるような気がしてならない。

鵜月は明治三〇年代に新聞紙上にあらわれた「胃活」という胃薬のコピー「胃病に胃活、泣く子に乳」について、「七五調という日本古来からもっとも親しまれてきた調子を用いたのも、当時としてはいい着想であった」とし、諺と対句法を併せて用いたという点も含めて「近代キャッチフレーズのスタイルと、修辞の典型をうちたてた、画期的な名標語であった」と評価している。たしかに「胃活」以後に作られた「カルピスは初恋の味」も「今日は帝劇 明日は三越」も、五音と七音を基調としており、その意味では短歌や俳句の調子に近いものがある。だが、同時にそれらは短歌でも俳句でもない。そして、短歌でも俳句でもないということが「近代キャッチフレーズ」らしさを保証していたのではあるまいか。見方を変えれば、「今日は帝劇 明日は三越」のようなコピーが新聞紙上をにぎわす時代にあって鷗外があえて「江戸に見し辻行灯や子規」と詠んだのは、「江戸」の名残や「子規」の鳴く里の情緒を俳句形式で詠むといういささか時代錯誤的な振る舞いをあえてしてみせることによって自笑軒を近代社会の喧騒から離れた場として提示するという、実に見事な演出であったとも思われるのである。