【59】往診の道すがら見ししんきろう  平田清

 

北日本新聞社編『蜃気楼有情』(北日本新聞社出版部、一九八一)の一句。
本書は富山湾(魚津市)の蜃気楼を中心に全国の出現例を紹介するほか、蜃気楼の起こる仕組みや文化史とのかかわりについてまとめたものである。
蜃気楼といえば、俳句においては春の季語のひとつとして知られていよう。しかし、魚津市の魚津埋没林博物館のサイトでは蜃気楼について次のような説明がなされている。

蜃気楼は、大気中の温度差(=密度差)によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象です。よく、「どこの風景が映るの?」という質問を受けますが、実際にそこに見えている風景が上下に変形するだけで、ある風景がまったく別の方向に投影されるわけではありません。
蜃気楼には大別して上位蜃気楼と下位蜃気楼とがあります。上位蜃気楼は、実際の風景の上側に伸びや反転した虚像が見えるものをいいます。下位蜃気楼は逆に、実際の風景の下側に虚像が見えます。魚津で普通「蜃気楼」といえば、上位蜃気楼をさします。下位蜃気楼と区別するため「春の(春型の)蜃気楼」と呼ぶこともあります。
魚津では下位蜃気楼を「冬の(冬型の)蜃気楼」と呼んでいます。冬の蜃気楼は、一般的には浮島現象、浮景現象などと呼ばれ、原理的にはアスファルト道路や砂漠などに見られる「逃げ水」と同種の現象です。
(http://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/mirageex/index.html)

魚津市の蜃気楼を詳しく記した『蜃気楼有情』では、蜃気楼は三つに分類されている。すなわち①偽水面の現象(浮き上がり、逃げ水)、②蜃気楼、③その他(古文書や言い伝えなどに出てくるもののうち、空気の粗密による光の異常屈折として説明できるもの)である。本書では①~③を「蜃気楼的現象」(広義の蜃気楼)とし、②を狭義の蜃気楼としている。
①は魚津埋没林博物館のいう「下位蜃気楼」「冬の(冬型の)蜃気楼」にあたるもので、水面や地面に触れる空気層が暖かく、それより上の層が冷えているときに発生する現象である。したがって、「冬の」といいながらも、条件さえそろえば冬でなくても発生することがある。また歳時記では「逃げ水」を春に分類するようだが、必ずしも春にのみ発生する現象というわけでもない。むしろ、アスファルトで舗装された道路の多い今日においては夏に発生することもある。ならば、それにもかかわらず歳時記で逃げ水を春の季語としているのはどういうわけであろうか。逃げ水といえば平安末期の歌人源俊頼の「あつまちにありといふなるにけ水の遁隠れつもよをすこすかな」という歌が夙に知られるところであるが、『蜃気楼有情』ではこの歌に詠まれた「武蔵野の逃げ水」についての諸説を紹介している。それによれば、「武蔵野の逃げ水」を紹介した文献の一つである斎藤鶴磯の『武蔵野話』続編(文政九年(一八二六))において、この現象が晩春から初夏にかけて発生し、かつ午前九時ごろまでと午後五時ごろから見えたと記されているという。とすれば逃げ水を春としているのも多少は合点がいく。しかし、そもそもこの歌や『武蔵野話』の逃げ水は朝靄や夕靄、あるいは朝夕の地霧の類ではないかともいわれているらしく、どうもはっきりしないのが実情のようである。

②は「上位蜃気楼」にあたる。この種の蜃気楼は①よりもずっと出現回数が少ない。『蜃気楼有情』で魚津市が誇る三大奇観として「蜃気楼、ホタルイカ、埋没林」を挙げているのは、上位蜃気楼の発生する場所として魚津市がそれだけ貴重だということであろう。実際、魚津市のサイトを見るかぎり、この三大奇観は現在でも魚津市の重要な観光資源となっているようである(http://www.city.uozu.toyama.jp/)。

ここで表題句に話を移すと、この句は鹿児島県薩摩郡下甑村(現薩摩川内市)の「しんきろうの丘」に建つ句碑に刻まれたものである。下甑村は薩摩半島の西方約五〇キロの場所に浮かぶ甑列島最南端の村である。この句を詠んだのは医師として五〇年以上にわたって村民の健康を守ってきた平田清である。下甑村といえば「Dr.コトー診療所」の主人公のモデルとなった瀬戸上健二郎の手打診療所がある場所でもある。平田は瀬戸上よりも前にこの離島での医療に貢献した人物であった。この句について本書では次のように説明している。

自動車道がなかったころ、島の東側にある青瀬地区から西海岸の瀬々野浦地区の急患宅へ歩いて行く途中に見たしんきろうを詠んだものだ。四百メートルの高峰を、登りつめ、この「しんきろうの丘」(当時は命名されていなかった)にさしかかったとき、はるか水平線上に雪の大連山を見たという。句碑は、これを後世に残そうと村費三十万円で昭和四十九年三月に建立されたものである。しかし、平田さんが五十二年十一月に七十七歳で亡くなったため、出現月日や回数など、この十七文字以外の詳しい話を知る人はいない。

不思議なのは「しんきろうの丘」が村の西海岸を望む場所にあるということである。前述のとおり薩摩半島は村の東側にあるから、平田が見た蜃気楼は薩摩半島とは反対側に現れたことになる。この句碑の傍に建つ「しんきろうの丘」の説明書きには「はるか水平線の彼方に林立する白色のビル街を認めてこの句を詠んだもので、しんきろうの丘と呼ばれるようになった。このしんきろうは遠く中国大陸の都市ではないかといわれている」とある。「雪の大連山」ではなく「白色のビル群」となっている点が『蜃気楼有情』と相違するが、それにしても、薩摩半島沖の島から中国大陸のビル群の蜃気楼が見えるものであろうか。

もっとも、村で蜃気楼を見たのは平田が初めてではない。本書では村役場企画室の春田正親の「しんきろうを神の現れといって拝んだという言い伝えもある」という話のほか、佐藤成裕の『中陵漫録』(文政九年(一八二六))に「薩州の小敷島の沖」で「漁人」が「洋中の新堤」を見たという記述があることが紹介されている。また、平田以後にも蜃気楼を見た者はいるようである。とはいえ、このきわめて珍しい現象を詠んだ句が村費で句碑になったという出来事は、何より平田と村民との良好な関係を象徴していよう。無医村で医師として働く際にはしばしば住民との人間関係のトラブルが懸念されるが、平田は下甑村出身でないにもかかわらず周囲から厚い信頼を得ていたようである。

ところで、この句碑建立の背景についてはまた別の観点から考えることもできそうである。『蜃気楼有情』にはこの句碑について次のようにも記されている。

 ところで、「しんきろうの丘」は、句碑建立と同時に村が命名したものだ。高さ百二十七メートルの奇岩「ナポレオン岩」、五十五メートルの「瀬尾の三段瀑布」など名勝地がいくつかあり、海水浴や磯釣り客も多いこの下甑村。「しんきろうの丘」も観光の〝目玉商品〟の一つに、という意図があった。事実、観光パンフレットにも紹介され、村内観光モデルコースに入っている。しかしPRはまったくしていない。相手がいつ現れるか予知のできないしろものだからである。

つまり、この句碑は観光資源の一つとして期待されたものだったのである。

わが国において、「観光資源」(resources of tourism)という語が人口に膾炙していくのは、一九六三年に制定された「観光基本法」に使用され、用いられるようになってからといわれている。(略) 「観光基本法」においては、「観光資源の保護、育成及び開発」として、第14条に「国は、史跡、名勝、天然記念物などの文化財、優れた自然の風景地、温泉その他産業、文化等に関する観光資源の保護、育成及び開発を図るため必要な施策を講ずるものとする」という規定がなされた。これを受けて、観光資源をめぐって様々な研究や検討が重ねられたことは想像に難くない。(井口貢編著『観光学への扉』学芸出版社、二〇〇八)

句碑建立という出来事は、時代的に見れば旧観光基本法の制定以後の「観光資源」への注目という流れのなかにあったのである。だが観光資源として「蜃気楼」を掲げる場合、その出現が不確実なものであるという点がどうしても問題になる。先の魚津市が蜃気楼の発生記録を公開しているのも、ひとつにはこうした問題を少しでも解消しようという狙いがあるからだろう。魚津市よりもはるかに発生頻度の低い下甑村の場合、蜃気楼そのものに期待するわけにはいかない。だが、物語としての蜃気楼であれば下甑村でも商品化が可能だ。さらにいえば、そこに無医村に分け入って村民の健康を守り続けた偉大な医師としての「平田清」という美しい物語を付加できるのなら、ますますその商品価値は高まろう。ようするに、「下甑村の蜃気楼」という物語を提示するとき、その具体物として要請されたのが「平田清」であり「往診の道すがら見ししんきろう」の句であり句碑ではなかったか。平田の句碑は、僕たちが俳句表現の向こう側何を欲しているのかを教えてくれる。