【60】雪地獄また遭難の悲報きく  木村柏好

 

 

おの・ちゅうこう『奥利根の歴史と旅』(崙書房、昭和四六)の一句。

本書は群馬県利根郡に生まれた詩人のおの・ちゅうこうが自らの故郷である奥利根の歴史や風土について回想を交えつつ記したものである。本書冒頭で、おのは日本短波放送で自作の詩「奥利根の空」について次のように語ったことがあると記している。

これは私の郷愁なんですよ。私のふるさとは群馬県の利根川上流なんです。ちょうど南に赤城がどっしりと裾野をひいて聳えていて、北には武尊、谷川の山々が青く空の一部をくっきり占めて日に濡れているのですね。そのあたりの沼田高原が、私のふるさとです。(略)
 上野を発って、ひろい関東平野を横ぎり、雑木林と畠と田んぼを眺めながら熊谷を過ぎると汽車の窓の右前方に、赤城の山影が見えてきます。赤城が見えてくるとなつかしいですね、赤城は上州(群馬)を象徴する山で、父のような威厳で太っ腹な愛情をたたえて微笑していますよ。(略)高崎ちかくなると左手に榛名も見えてきます。右に父なる赤城、左になだらかな山容で母の慈愛を偲ばせる榛名、その間を利根川が清く澄んで流れているのです。これは『群馬の空』という前橋近くの風景抒情ですが、渋川に着くと、私はもう故郷に帰った気持になります。

ここでおのが紹介している「群馬の空」とは「赤城が 父なる山ならば/榛名は やさしき母ならん/桑の葉青き 野のはてに/利根川 白く流れたり」と始まる望郷の詩である。おのは故郷を抒情的にうたいあげた詩人であった。明治の末に生まれたおのは十代のほとんどを大正時代に過ごしている。詩を書き始めたのもこの時期であったが、大正から昭和の初めにかけての詩の多様な展開を間近で感じながら、しかし自身はあくまでも抒情詩を書くことにこだわり続けた。昭和六年に群馬出身の詩人である萩原恭次郎を沼田に招いた際、「抒情詩などをもてあそんでいる奴は、詩人でもなんでもない」と語る萩原恭次郎に「ほんとうの詩は、日本伝統の詩歌を踏まえて、その上に打ちたてる純粋な抒情であるべきだ!」と反駁し殴られたというが(おの・ちゅうこう『青春放浪記』創隆社、昭和五五)、『赤と黒』の創刊や『死刑宣告』上梓といったこの同郷の詩人の活動を同時代のそれとして感じながらも、なおこのように主張したところにおのの気質の一端を見る思いがする。おのの処女詩集『牧歌的風景』の上梓はその翌年(昭和七年)、おのは二四歳であった。モダニズムだプロレタリアだと言われていた時代に、それも河井酔茗の序詞をもって登場した、このいささか時代遅れの感さえある名の詩集で自らを世に問うたのがおのであった。

さて、冒頭の言葉に戻ると、おのは赤城山に郷愁を感じるという。やはり群馬生まれでおのよりも二歳年長の詩人に伊藤信吉がいるが、伊藤は「上州望郷」という詩の末尾に次のような短文を記している。

幼年の日の空に風は季節の色で吹いていた。そして私はこの土地で育ち風に羽搏く思いを知り、風に抗う歌を知った。

おのにとって故郷をうたうことが山をうたうことであったように、伊藤にとって故郷をうたうことはすなわち風をうたうことであった。この相違は何より二人の出身地の違いによるものであろう。赤城山を南に見る利根郡出身のおのに対し、伊藤は山を隔てた向こう、すなわち赤城山を北に見る群馬郡元総社村(現前橋市元総社町)の生まれである。つまり伊藤のいう「風」とは赤城山から吹きおろす風を背景にしている言葉であって、その意味ではおのにとっては比較的馴染みの薄いものであったろう。明治四一年に生まれ、群馬師範学校(第二部)を卒業後、生地の隣村にあたる川場村で小学校教員となったおのは、昭和七年に勢多郡に転勤(その後上京)するまでの二十余年にわたって、この「裏赤城」とも呼ばれる利根川上流の地で暮らしたのであった。

この地では草野心平をはじめさまざまな詩人たちとの交流があったが、おのは地元の俳人たちとも交わっていた。父の小野貢は曹洞宗の禅寺に生まれたが跡目を継がずおのが生まれた当時は運送店と雑貨店を兼営していたが、この父はまた号を「高風」といい俳句をよくしたという(宮下全司「群馬の詩人・児童文学作家おの・ちゅうこうの学校時代における文学的軌跡」『明和女子短期大学紀要』明和学園短期大学、一九九二)。また、おのは川場小学校に勤めていたころ思想犯としての疑惑を払拭するため小林という駐在巡査と酒を酌みつつ、次のように説明したという。

「小林さん。ぼくはね、危険思想の持ち主なんかはないんですよ。ぼくの書くものは抒情詩なんですよ……ソレ、月が美しいとか、道ばたの雑草や咲いている花がいとおしいとか、この村の俳人たちが俳句を作るでしょう。あれとおなじ筆法で、心のなぐさみに詩を作っているんですよ」
 こんな筆法で、小学児童に文学の手ほどきをするつもりで話しかける。
 小林巡査は、文学などはちんぷんかんぷんなので、フムフムと聞きながら酔っぱらっていく。こんなことを幾回かくりかえしているうちに、だいぶ巡査の警戒の目がゆるんだようである。(前掲『青春放浪記』)

師範学校卒の給料取りといういわば地元では異質な存在であったおのや、あるいはその友人たちが書く自由詩などよりも、俳句はどうやら地元住民にとって親しみやすい詩形式であったらしいことがこんな言葉からもうかがわれる。

ところで、大正から昭和初期にかけての群馬における俳句とはどのようなものだったのだろうか。おのは『奥利根の歴史と旅』で天心庵光同について「幕末から明治二十年代にかけて利根俳壇を育成した著名の俳人」とし、また表題句の作者木村柏好は奥利根の郷土俳人であり天心庵七世を名乗った人物であるとも述べている。柏好はまた俳誌『流映』を編集発行していたというが、詳しいことはわからない。天心庵などというといささか旧派めいているが、林桂は群馬の旧派について「現在、『旧派』を検証する視点も資料も多く失われてしまった」としながらも、昭和三〇年刊行の『上毛俳句集』収録の「群馬現俳壇の展望」において相葉有流が県内に偏在する旧派に触れていることを指摘したうえで「少なくとも昭和三十年代までは、『旧派』は生き延びていたということになる」と述べている。また、先に挙げたおのと同世代の詩人伊藤信吉の父は大正一五年に矢島天来が創立した「大正吟社」に参加していたが(伊藤信吉『回想の上州』あさを社、昭和五二)、林はこれを大正期の新派の代表的な句会である「いなのめ会」(明治期に興り大正期に再興)、「紫苑会」と比較して「『いなのめ会』『紫苑会』といっても、十人内外の規模に過ぎなかっただろうから、俳人の人口の過半はまだ『旧派』にあったのに違いない」とも述べている。とすれば、大正吟社はこれらより規模の大きなグループだったわけである。当時の旧派のこうした勢力を考えると、おのが天心庵光同についてその著名ぶりを指摘していることもうなずける。

いずれにせよ、こうした状況のなかでおのは俳人たちと出会っていく。とりわけ金子刀水との出会いはおのにとって重要なものであった。刀水は本名を金子健次郎といい、おのの勤務校であった川場小学校に出入りしていた山田屋書店の主人であった。おのが処女詩集出版の希望を抱きながらも経済的な都合からそれを果たせないでいることを店員の青木丈夫から聞き、その出版費用に当たる二百円を出してくれたのが刀水であった。これはおのの給料の四ヶ月分に相当したというから、おのの感激はいかほどであったろう。刀水は村上鬼城門の高弟として知られている。鬼城は明治二八年に正岡子規に書簡を送って教えを乞い、新聞『日本』に投句を始め、大正期には『ホトトギス』の代表作家の一人となっていたが、刀水はこの頃(大正七年)に「沼田俳句会」を興し、当時群馬県高崎市に暮らしていた鬼城に師事したのであった。『定本村上鬼城句集』『鬼城俳句俳論集』など鬼城関係のテキストの整備に尽力した刀水の功績は看過すべきではあるまい。もう一人、沼田出身で鬼城門下の俳人に植村蜿外がいる。蜿外も大正期に鬼城に師事し刀水や横山楽水らと「茅の輪句会」を興した。おのによれば蜿外は「地元の文芸家代表」で、萩原恭次郎を招いたのも蜿外の力によるところが大きかった(前掲『青春放浪記』)。

丘の雪照り曇りして花に佇つ     金子刀水
雲海や吹きさらわれし登山笠     同
簗の簀にどんぐり走り鮎落つる    同
石のせて汗のシヤツ干す河原かな   植村蜿外
秋風や廊下の上の釣りランプ     同
曼珠沙華曇る一と日の塩田かな    同

こうした交友関係は数え上げればきりがないが、これらを見ていると、大多数が中学さえ入ることのなかった大正から昭和初期の奥利根の地にあって詩型の垣根をこえた作家的交流が存在したことがうかがわれる。それはまた、北も南も山に遮られた奥利根という地形がもたらした独特の文学的空間であったのかもしれない。おのが柏好を知りえたのはこうした状況においてであったろう。

前置きが長くなったが、ようやく表題句に話を移そうと思う。おのによればこの句は谷川岳の遭難を詠んだものであるという。冒頭のおのの言葉にある「南に赤城がどっしりと裾野をひいて聳えていて、北には武尊、谷川の山々が青く空の一部をくっきり占めて日に濡れている」の、あの谷川岳である。谷川岳といえば遭難者のとりわけ多いことで知られ、かつては「魔の山」とも呼ばれていた。昭和六年に高崎―長岡間を結ぶ上越線が開通(高崎―水上間は昭和三年)したことで奥利根の水上温泉がにわかに脚光を浴びるようになったが、北に聳える谷川岳にもまたスキーや登山を目的とした客がやってくるようになっていた。おのは本書で次のように言う。

さて谷川岳はいつごろから登山が試みられたのであろうか。古老の記憶によると最初の御正体(懸仏)には文明十六甲辰年という文字が刻まれていたという。文明といえば今から五百年ほど前である。この頃すでに登山があった。しかし大正九年に日本山岳会の藤島敏男、森喬の二人が土樽―毛渡沢―仙の倉―同谷―茨倉山―一ノ倉―谷川岳―天神峠―谷川温泉を踏破してからスポーツ登山が行われるようになったのだという。
 昔の人たちは山を恐れていた。
「山犬に喰われるぞ。テングにさらわれるぞ」
 といって樵夫や炭焼や猟師、植木とりなどの他はいなかった。植木といえば百年も経った三十センチ以上の古木の五葉松が採れたものだそうだ。
 上越線が水上まで通じたのは昭和三年だが、これで谷川登山も便利になった。(略)
 昭和二年ごろ慶應大学の大島亮吉氏が一ノ倉その他を踏破して報告してから、学生山岳を刺激してようやく登山熱がわきたった。
 昭和五年に清水トンネルが開通すると、にわかに谷川岳がクローズアップされてきた。汽車で土合までは苦労なくいけるからである。この頃のガイドは炭焼きや猟師たちで日当一円五十銭くらいだった。
「いい商売ができた」
と、みんな喜んでいた。
しかし当時、山道をひらき谷川岳の開発に努力したのは湯檜曽の本家旅館の主人の阿部一美氏と、土合に住みついた中島喜代志さんだった。阿部氏が昭和四年ごろから利根ではめずらしいスキーを習得して普及した。講習会もひらき越後の方まで足をのばして教えたという。私もこのころ沼田中学(旧制)を了えてまだ利根にいたが、スキーは流行りはじめたばかりで、おもしろいが良いスキー場もなく、珍しいものだった。

しかし同時に谷川岳は多くの遭難者を出す場所ともなった。谷川岳に登山客が訪れるようになった昭和の初めの頃は、遭難があると土地の案内に詳しい炭焼きや猟師、植木とりなどの人々が飛び出すことになった。

炭焼などは一日休めばそれだけ収入がマイナスになる。それでも無償で飛出したという。人情が厚かった。しかし度重なる遭難騒ぎで地元民もまいってしまった。
「一週間もタダで狩りだされちゃ、オマンマにならねえ。登山をとめてくれろ」
山の家の中島喜代志さんが麓へさがっていくと村民に怒られたものだという。

谷川岳周辺では上越線の開通とともに山岳ガイドという新たな商売が生まれると同時に、遭難者の救助という無償の奉仕活動もまたもたらされたのであった。交通網の整備が奥利根の地元民にもたらした変化は他にもある。小野喜代三といえば水上駅の北に位置する宝川温泉の開発者として知られているが、おのはその功績を次のように記している。

まず水上駅から二十キロにあまる道路の改修、これを県道とする陳情運動。四十年にあまる開発の苦心だった。その功が実って、駄馬で荷物を運んだ道をバスが走り、地方人と樵夫の湯あみしていた湯に数万の都会人を迎える夢のような楽天地が現出したのである。

しかし、この県道の整備に反対した者もいた。おのは宝川温泉のさらに北、湯の小屋と呼ばれる地の古老大坪沖衛に話を聞いている。

「ここらの道も馬で荷物を運んだもんだ。水上へな。ダチンつけといって、馬方はいい金になったもんだ。だから喜代三さんが、自動車のはいる道をつくろうとしたとき、みんな反対した。ダチン(賃金)がとれなくなるものな」

上越線の開通以来、悲喜こもごもの様相を呈しつつ観光地として急速に発展を始めた奥利根の地にあって、柏好は「また遭難の悲報きく」と詠んだのであった。この「悲報」はむろん遭難者を慮っての言葉であろう。そしてこの「悲報」を「きく」のは柏好自身であったかもしれない。しかし、柏好が郷土俳人でありその身体とまなざしとが奥利根の地にあったのであれば、この「悲報」は柏好ひとりが聞いていたものではあるまい。柏好が「悲報きく」とうたうとき、柏好のまなざしのうちには自分と同じくこの「悲報」を受け取っているはずの奥利根の人々の姿があったろう。さらにいえば、「また」という表現も柏好ひとりのものではあるまい。この「また」は奥利根の人々にとっても切実な「また」であったように思われる。いわばこの「また」は、かつて自分たちの恐れた山が登山ブームとともに変容していく様を見てきた地元の人々の「また」であり、遭難者の捜索にかりだされた彼らの記憶が畳み込まれた「また」ではなかったか。この句はたんに遭難者への思いを述べた句ではない。この句は奥利根に生きる人々の声を含みこんでいるのであって、だからこの句はまさしく変貌する奥利根の地から発せられたものであったろう。

ちなみにこの『奥利根の歴史と旅』上梓の年に上越新幹線が起工、数年前には関越自動車道が着工となっている。東京圏と新潟を結ぶこの新たな交通網の登場により、水上温泉をはじめ観光地としての奥利根はふたたび変貌のときを迎えていた。