【62】寒星を見に出かならず充ち帰る   山口誓子

 

石田五郎『天文屋渡世』(筑摩書房、一九八八)の一句。本書は「二世天文屋」を自称する石田五郎によるエッセイ集である。巻末に「〝初代天文屋〟を追贈した抱影先生(在オリオン座)にこの本を捧げる」とあるように、石田は少年時代に野尻抱影の著作から大いに刺激を受けた。とりわけ星空への開眼の決定的な要因となったのは抱影の『星座神話』であったらしい。抱影が『星座巡礼』『星座めぐり』に次ぐ三作目の星座解説書として上梓したこの著作について、石田は「神話→天体解説→星座図→名画というわが国の星座案内のプロトタイプ(原型)をつくった」と評している。神田の三省堂で『星座神話』と出会った少年の日の石田は「白鳥座ではダ・ヴィンチ派の画家の描くスパルタ王妃レダの裸像図が眩しく、また妖しい胸のときめきに思わず頁を閉じた」のだが、抱影の著作に心躍らせたのは石田ばかりではあるまい。石田はまた次のようにもいう。

ひとつの季節が終わるとやや長い詩句のしめくくりがあり、春はダンテの神曲第十三歌で北斗のかがやきを歌い、夏はポォル・フォオルの詩、こおろぎがなく夏の夜の銀砂子を、秋は高青邱の詩「南湖をすぎて」月未だ出ずして蒹葭露淒淒たりと斗柄水に挿んで低しと地平によこたわる大熊座に秋深きをつげる。冬は建礼門院右京大夫集より、叡山のふもと坂本から東の方に眺める星月夜の美しさをたたえた一節が引用された。

抱影の星座解説書がいかなる魅力を湛えていたかがうかがえる一節である。ともあれ、その高等学校時代に寮の便所に「星を見よ!!」と書きつけたという石田の精神的なルーツはこのあたりにありそうだ。本書に詩句がたびたび引用されるのもこうして育まれた石田の気質のあらわれであろうか。

空林に入りて寒星ふりかぶる     山口誓子
茫と見えまたひとつずつ寒昴     同
寒月に昴のうすれ無残なり      同

『天文屋渡世』には山口誓子の句がたびたび登場する。石田は「星の句は誓子に限る」と断じているが、誓子への肩入れの背景には、抱影・誓子の共著『星恋』(鎌倉書房、一九四六。のち中央公論社が再版、深夜叢書社が『定本・星恋』として復刊)への傾倒があろう。誓子の俳句と抱影の短文とを組み合わせて四季の星空を讃えたこの書を、石田は蕪村・大雅の「十便十宜図」にたとえ、あるいはまた俵屋宗達の下絵に本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き連ねた巻物にたとえている。
この抱影と石田は後に書簡を交わすようになったが、本書にはその一部が紹介されている。

「困つたのは小生のオリオン・マンションに三人の地上脱獄囚の二人が闖入し、……ナポレオンまで平らげてゐる……」(48・1・7付)は赤軍派のテル・アビブ事件の直後。「先般はご弔辞有難う存じました。〝今さら驚くべからず〟(船弁慶)で万事終了……机に戻り、新著をつづけています。十八日に(プラネタリウム)でサヨナラ講演(これで四回目)……」(48・5・15付)。これは御舎弟大仏次郎氏の逝去、人間生死についての覚悟はこの頃から確固たるものがあった。
昭和五十二年十月三十日に御他界、奇しくもその五日前の十月二十五日に宇宙論の詩人稲垣足穂氏が死去しているが、「タルホ君は昔小宅を訪れ、漢代出土の白玉の杯でビールを飲ませたところ喜んでゐました。全集(?)が出たときも寄稿を頼んできたが、小説を貰つても内容がややこしくて読み通したことがないので断りました。」(46・6・29付)。早足の抱影先生のこと故、御両所はあるいは六道の辻あたりで会われたかもしれない。抱影先生はオリオン・マンションに向かったのは確かだが、タルホ氏はいまどの星をめざしブレリオ単葉機をとばしつづけているのであろう。

石田は空を見上げながら自らと語り、また他者と語らう。石田にとって星空とはそのようなものであった。それはまた、弟の死の直後に、やはり星空を見上げながらその筆を進めたであろう抱影においても同様であったろう。

ここで表題句に戻れば、誓子の句は石田にとって強い実感の裏打ちとともにその胸に刻まれたにちがいない。「かならず」という断定的な措辞は、ともすれば、寒星を見上げる者の弱さを潜ませているようにさえ思われる。にもかかわらずこの句が胸を打つのは、この星空との邂逅の一回性を信じて疑わない者の純粋さを高らかに詠っているからだろう。
石田は「夜ねないで働く」者として「泥棒と天文学者」を挙げているが、思えば、天文学者とは奇妙に浮世離れのした淋しい存在である。だが、抱影がオリオン・マンションに住んでいたように、足穂がいつでも彼の宇宙を生きていたように、石田もまた星空を見上げることで「充ち帰る」ことがあったろう。そしてそれはきっと「かならず」という措辞を伴うような切実な行為であったにちがいない。

本書巻頭を飾る文章のなかで石田は次のように言う。

その時折眺めた星の輝きが、日記の一頁にはさみこまれたひとひらの押し花のようにひそかに胸の中にしまいこまれるならば、再びその星に出会う時、以前見たときの楽しさも悲しさもすべてが香も失せずそのままに再現される。
いくたびもめぐりあい、その思い出が重なれば、星への思いもつのるというもの。
「この星だけは私の悩みを知ってくれる……」
とひそかにきめた美しい星ができれば、人生の愉しみこれにすぎるものはない。

少年の日、空襲に備えるために行われた秋の防火訓練で灯火管制によってつくりだされた一時の暗闇のなか、ひとり東京の星空の美しさに魅了された石田にとって、星空の思い出はいつも「秋の末、おうし(牡牛)座のあたり」から始まる。そして、やがてやってくる冬の空には抱影の愛したオリオン座が輝いているのである。
一九八六年、ハレー彗星ブームの収束直後に石田は次のように書いている。

 作家の堀田善衛は「ちくま」誌の五月号に「大失望」と題した随筆をかき、かつて一一四五と一二二二年のハレー彗星出現時になされた「七仏薬師法・泰山府君祭」などの行法の豊かさにくらべ、今回のテレビジョン・ショウの味気なさ・情けなさをかこっているが、さしたるパニックもなくカラ騒ぎを終わり、机上に山積した資料の解析に取り掛かり、次回の二〇六一年にはどのような観測方法でこの彗星を歓迎しようか、と静かに椅子に腰かけて計画を夢見る天文学者たちの胸中を推量したことはあるのであろうか。
 ともあれ「さらば彗星(とも)よ」である。

石田もまた、次にハレー彗星を迎える日を夢見る天文学者のひとりであったろう。けれど、一九二四年生まれの石田にはむろん、その夢がかなうはずもない。だがこの「さらば彗星(とも)よ」という挨拶が、永訣のそれであったとは僕には思えないのである。石田は、やはりこの遠来の「友人」との再びの邂逅を夢見ていたのではなかったか。かつて高校の寮の便所に「星を見よ!!」と書き付けたあまりにも純粋な精神とは、あるいは「天文屋」などという風狂めいた呼称を自らに許す精神とは、そのようなものではないだろうか。

ちなみに石田は一九九二年に亡くなった。この年、冥王星の外側に小天体「エッジワース・カイパー・ベルト天体(EKBO)」が見つかっている。