久保田穂波『久保田穂波句集』(青芝俳句会、一九七二)の一句。本書は一九四六年に三六歳で亡くなった久保田穂波の遺句集である。久保田は一九三五年に八幡城太郎とともに義沢すくねの門下となり、やがて『旗艦』同人となった人物である。だが、結婚後まもなく応召兵として渡満、ソ連に抑留中病没した。久保田の生涯については不明の部分が多いが、山本つぼみ『評伝八幡城太郎』(角川書店、一九九五)のなかに久保田に関する記述が散見される。八幡城太郎は久保田に誘われて俳句を始め、俳誌『青芝』を創刊した人物。八幡は『久保田穂波句集』の「あとがき」で若き日の自らを振り返って次のようにいう。
昭和十年、穂波・侯太郎(前田侯太郎―外山注)に誘はれて、義沢すくね翁の門を叩いた。よき先輩として「ひなどり吟社」の一員となった私を、指導したり励ましたりして呉れた。句会のあとではラーメン屋こまやで一杯やり乍ら、あれこれと句評をたたかはせた。
前田柳風によれば、「ひなどり吟社」は一九三一、二年頃前田の住居で結成された。義沢はその指導者の一人であった(『すくね俳句集』すくね俳句集刊行会、一九五七)。必ずしも積極的ではないながら俳句をはじめた八幡であったが、その後久保田をはじめ周囲の若者たちとともに新興俳句へと傾斜していく。なぜ久保田が新興俳句へと向かうようになったかは詳らかではないが、八幡が横浜で購入してきた俳誌のなかに『旗艦』があったこと、そして「ミヤコホテル」をはじめとする日野草城の作品への関心が新興俳句への接近を促したものと思われる。
久保田の生前に上梓された唯一の句集に『小夜』(双星社、一九四一)がある。八幡ら同世代六人による合同句集である。この句集については『旗艦』に次のような記事がある。
わたしたち、久保田穂波、糸山法蔵、北島太郎、前田侯太郎、青柳寺宣静の六人で、こんど第一句集「小夜」を上梓した。それは世に問ふ私たちの作品集ではなく、田舎の町にゐる若いわたしたちの、をりをりのよろこび、かなしみ、さびしさを詠つた、こころのつぶやきのやうなものを、一冊にまとめたもので、殆どわたしたちの手で作成した。大体、句の整理はわたしがやり、中の体裁は法蔵、装幀は穂波、印刷は島太郎、製本は侯太郎、発想は宣静がやつた。本をとぢるのに五いろのリボンを使ひ、寒い草堂の一室で、皆で楽しく結んだ。くれなゐ、うすみどり、き、だいだい、ももいろ。くれなゐはあのひとに、かのひとはうすみどりなどと、夜の更けるのも忘れた。(略)
二月八日夜、そばやのおやぢさんが発起人になつてくれて、郵便局長さん、石屋さん、活動間の映写技手さん、詩人の花屋さんたち地元の人たちの心からなる、つつましい「小夜」にふさはしい出版記念会を開いてくれ455た。(八幡城太郎「壁と小夜」『旗艦』一九四一・三)
久保田のいた「場」の雰囲気がうかがえる一文である。
この「場」について考えるためにもう一つ補助線を引いてみたい。『小夜』に参加した久保田らと交流のあった若者の一人に、眞鍋呉夫がいる。眞鍋は当時八幡が編集に携わっていた『芝火』に作品を寄せていたのである。『小夜』上梓と同年、眞鍋もまた句集『花火』(こをろ発行所、一九四一)をまとめているが、この頃に久保田や八幡は眞鍋と句会を開いている。眞鍋は同人誌『こをろ』の仲間である島尾敏雄を連れていたが、このときの句は『芝火』(一九四一・一)の句会報に掲載されている。当時眞鍋は二〇歳、八幡は二八歳、久保田は三〇歳であった。
朝の落葉に湧く噴水の明るさよ 眞鍋呉夫
噴水も花火も人の上に咲く 同
いつ来ても娘囲炉裡で榾くべてゐる 島尾敏雄
榾けぶり娘がそつと目をこする 同
うしろ姿の肩のちひさき別れかな 久保田穂波
温泉の夜のをんなのさぶき瞳に遇へり 前田侯太郎
しぐれては女のかげが濡れてゐる 糸山法蔵
灯ともりてたそがるゝ空冬ざれぬ 八幡城太郎
この句会の持たれたのは一九四〇年一一月九日のこと。太平洋戦争の開戦直前の頃であった。眞鍋、島尾、久保田らは出征、久保田はそのまま帰らぬ人となった。この句会がそのような状況のなかで行われたものであったことは看過すべきではない。それはまた『小夜』『花火』上梓を考えるうえでも同様であろう。『こをろ』の同人たちは自らを「同人」ではなく「友達」という名で呼びあったが、紅野敏郎は彼らについて、「友達」という「最小単位の範囲で、おのれの繭をはぐくんでいた」と指摘している(「『こをろ』の意義―昭和十年代文学再検討―」『文学』一九七七・二)。実際、『こをろ』には「友達」と題する次の文章もある。
言はば、私達のこの「場」は、孤独に耐へる夫と、孤独に耐へる妻とが支へる、冬なら、暖炉がぱちぱちはじいてゐて、夏なら、夕暮のひつそり降りてくる居間だ。(略)この居間は、奥深い一枚の夜空、私達は花火だ、無数の花火のそれぞれのほくちは、私達のとりどりの個性だ、生だ、魂だつた!
秋空に人も花火も打ち上げよ。(矢山哲治「友達」『こをろ』一九四一・三)
文末の「秋空に人も花火も打ち上げよ」は『花火』の巻頭を飾る句である。眞鍋が久保田達との句会で詠んだ「噴水も花火も人の上に咲く」はこの句を念頭に置いたものであったろう。「秋空に」の句における「人」は、あるいは『こをろ』という「居間」に集う「友達」を指すものであったのかもしれない。とすれば「噴水も」の句における「人」とは句会に集った若者たちの謂ではなかったか。僕には、『小夜』上梓についての前掲の八幡の言葉を読むかぎり、久保田や八幡のいた「場」もやはり『こをろ』と同様のつつましやかな集団としての性質を少なからず持っていたのではないかと思われ、そしてまたそのような類似性が『こをろ』同人との句会をあらしめたのではないかとも思われるのである。
さて、あらためて『久保田穂波句集』の話に戻ろう。本書には『小夜』収録句も収められている。『小夜』は新作をまとめたものではなく、その時点での佳句をまとめた句集であった。『小夜』収録句を以下にいくつか引く。
この丘
わがひとときて枯芝の丘の果
夕かぜのひととわかるる野の末黒
この丘の起伏をこえてきみゆけり
わがひとを行かしめわれに昏るる丘
人とほし芒の穂絮とんでゐる
たそがれは親仔で山羊が鳴いてゐる
短日の夢にめざめてめしひなり
先の句会の句でもそうだが、久保田の作品には寂しげな雰囲気が漂っている。これは『小夜』収録句に限ったことではない。『久保田穂波句集』の巻頭句「末黒野のはてまで歩みきたりけり」から「法蔵に」と詞書のある句集末尾の句「秋風の只中に相邂はむかな」までほとんど一貫している。八幡が付けたという久保田の戒名は「黄昏院穂波風影居士」というくらいだから、こうした作風は伊達ではなかったのだ。
「わがひとときて枯芝の丘の果」「この丘の起伏をこえてきみゆけり」「わがひとを行かしめわれに昏るる丘」は一九三八年の作。これらに詠まれている「ひと」とは当時久保田の恋い慕うある女性のことである。
その頃、私は寺の物置に住んでゐて、夜な夜な彼ら(久保田穂波、前田侯太郎―外山注)は現れたものである。俳句以外のことは余り話さなかつたが、偶々「俺には好きなひとがあるんだ」といふ彼(久保田穂波―外山注)の言葉に「Sさんだらう」と云ふと、彼は驚いてゐた。そんなカンは不良少年あがりのこちとらには、なんでもないことなんだが、模範青年の彼や侯太郎には、おどろきだつたやうだ。それではと名望家のお嬢さんを芝山に誘ひ出し、……駈落ちまで計画して二人を新宿までゆかせたが、そこからすごすご戻つて来て了つて、やがて彼女は嫁いでいつて了つた、彼女への哀惜の句は〈別離の日〉とか〈回想の丘〉とかに見られると思ふが、私としては彼にしてやれた最もよき贈物だつたと思ふ。(八幡城太郎「あとがき」『久保田穂波句集』)
このあたりのモラルの是非についてはここでは問うまい。ただここからは、友人の叶わぬ恋に奔走する一人の若者の粗雑だが健気な姿がうかがえるように思う。そしてまた、この友人のおせっかいが、日野草城に傾斜した若者に「別離の日」なる絶唱を生ましめたのもたしかなのである。
別離の日
〈春浅き屋上園にひととわかれ〉
わがひとはリフトをわれは階を踏めり
わがひとときてなかぞらのかぜにふかれ
あきらめし瞳はるかに雲ながれ
高階の春あさけれど去にがたき
まぐる(ママ)鮨つめたく食へり高階に
リフトにてひたすら階を降りたる
別れねばならぬコテイを購へり
春さむきこの日三越つねのごとく
この舗道とほくまがらずきみゆけり
表題句「別れねばならぬコテイを購へり」はこの連作中の一句である。「コテイ」は当時若い女性に人気のあったコティ化粧品のこと。新宿の三越の屋上へ行き、「高階」で鮨を食べ「リフト」で降りて別れ際に「コテイ」を購入する若い男女の姿はいかにもモダンだ。久保田の寂しげな作風が、草城を通過し、また若き日の叶わぬ恋というテーマを得て結実したのがこの連作であったろう。
ところで、『久保田穂波句集』には「わがひと」を詠んだ句が散見される一方、妻の句はほとんど見当たらない。ただ、わずかに次の句がある。
春の旅ボストンバツグ妻の手に
風ひかり妻のえりあし伸びてゐる
春愁のつまのすがほをある日みき
ふるさとに妻ありわれは更衣
この「妻」について、八幡は本書の「あとがき」で次のようにいう。
その後、彼は近所の娘さんと結婚して幸福になつたが、忽ち応召、愛妻Tを(ママ)両親をおいて出征した。没後、彼の母に彼の句を蒐めておきたいと思ふがと云つたら、「旗艦」とかノートを全部、風呂の焚きつけにして了つたと云いた。最近になつてTさんから彼の句を拾ひあつめたノートを見せられて、恰度廿七回忌でもあり、句集として上梓するやうに計つた。
山本つぼみは『評伝八幡城太郎』のなかで、『久保田穂波句集』は「Tさんが穂波死亡の公報をうけた久保田家を去る日、隠して持ち出した一冊のノートが結実しての句集」であると述べている。出征と死によって結婚生活に終止符を打たれた後、亡父の句を拾い集め、ひそかに持ち出した妻の思いとははたしてどのようなものであったろう。