石原健生編著『指導原理 ほんたうの俳句とは』(大觀堂書店、一九三五)の一句。本書は石原健生(萬戸)と石原の創刊した俳誌「かへで」に依った人々による作句と鑑賞の手引書である。『石原萬戸句集』(石原萬戸句集刊行会編、私家版、一九七八)巻末の「著者紹介」では石原について次のように記されている。
・明治二三年十月二十七日、大阪市東淀川区淡路本町に生まれる。健生と号す。本名武雄。
・大阪府立北野中学を経て早稲田大学に学び、森田草平氏の紹介により夏目漱石最後の門弟となる。
・小宮豊隆氏、森田草平氏のもとに岩波書店漱石全集初版本の校正に当る。
・大正十五年、俳誌「かへで」を創刊、その編集経営に当る。
・村上鬼城翁を崇敬すること厚く、翁の下阪実現も著者の熱心とその人柄が翁を動かした為と言われる。
石原は一九一六年から一九四三年まで雑司ヶ谷に住み、自らの住まいを「鶯来軒」と称していたが、『石原萬戸句集』の「序」(石井庄司)によれば漱石の墓守としての意識からこの雑司ヶ谷に暮らしていたのだという。
本書は石原をはじめとする「かへで」のメンバーによる三一の鑑賞文で構成され、それぞれの鑑賞文の冒頭に一句を据えているが、そのほとんどが明治期以前の作品である。例外は村上鬼城ら数名で、とりわけ鬼城は芭蕉とともに六句とりあげられるという厚遇を受けている。加えて、巻頭と巻末に鬼城の句の鑑賞文を据えているあたりにも、鬼城に対する石原の特別なはからいの意識がうかがえる。もっとも、鬼城に特別な思いを抱いていたのはひとり石原や「かへで」の作家たちだけではなかったようだ。皆吉爽雨は大阪に「大坂の有力な人々が相計って、翁を後援し、時には耳が遠く病気がちなその生活をはげまして之に資するという篤志な会」があったと記している(「石原萬戸氏の恩恵」前掲『石原萬戸句集』)。
では、その「崇敬」の念とはいかなるものであったのか。石原は本書巻頭に据えた鬼城の句「春の雷一つ大きく鳴りにけり」について「作者鬼城が人として純真に生き、さうして、童心を以つて大自然に直面したがために、『一つ大きく』といふやうな宇宙の絶大そのものを一句の中七にをさめ得た」と評したうえで次のようにいう。
句作者が「人として純真に生き、さうして童心を以つて大自然に直面したがために」、「ほんたうの俳句」が作り得られるとは一たい、どういふことを意味してる(ママ)でありませうか。すなはち、俳句が他の詩歌と異なつて、一句の中心に季題をおもんずること―この季題と純真・童心とが相互に関係・親和をもちながら、ここに季題の感味がうづまき、閃光を発するのであつて、句作者としての重要な課題が提示されるのもこの場合である。
「一句の中心に季題をおもんずる」のが「俳句」であるとする石原や「かへで」の作家たちにとって、当時新しい俳句表現を切り拓きつつあった新興俳句運動は容易に与しうる対象ではなかったようだ。
今日の俳人でも、特に、所謂新興俳句とか、連作俳句とかに藉口して、一時を糊塗する徒輩にして、一句の作品に、芸術の鹽を看破る者いくたりがあると思ふか。出過ぎた言葉遣ひをしなければならないほど、切迫してゐる今日の情勢を、なげかはしく思ふ次第。(石原萬戸)
一方で、「俳壇即ホトトギス」と言われるほどの権勢を誇った当時の「ホトトギス」にもお違和感をもっていたらしい。
冬ぬくゝ雪を見ずして梅の花 虚子
この句などは季題の感味を主張する何の手がかりもないといふよりも、作句態度―もしくば(ママ)俳人としての生活から遊離した瑣事を記述した好例である。これは十七字を数へられても、詩美が欠如して、日常会話と見ても意味頗る不明のそしりをまぬがれないのであります。このやうな俳句をものして、尚ほ、恬として愧ぢない作者の、後進をあやまることの、いかに大であるかを思はなければならない。(並木完日史)
昭和一〇年前後におけるホトトギスでも新興俳句でもないいわば第三極としての俳句がいかなるものであり、その後どのように展開していったのかということは、これまで案外に論じられることが少なかったのではないだろうか。石原を中心とする「かへで」の俳句はこの第三極の俳句のひとつといっていいだろう。だが、結果として「かへで」の俳句がさほど多くの追従者を持ち得なかったのはなぜなのだろう。それは、ひとつには表現としての俳句の優劣の根拠が俳人としての生きかたの優劣に関わっているとするような、たぶんに精神主義的な彼らの俳句観にあるのではなかろうか。たとえば本書では「花鳥諷詠の徒」が「弊疾」に陥っているとし、それを「当今の俳句界」における「木の葉一枚を顕微鏡で見る如くに、また昆虫の習性を、事細かにうつし得たとばかりに、俳句修業の成就を言ふ」ような風潮と関連付けて論じているが(斎藤芳江)、しかしながら、同じ筆で「ほんたうの俳句」の作りかたの秘訣を「これは要するに人の問題でありまして、各自の人格の深化・聖化を期する以外、俳諧・俳句のことを言い得るものではない」と断言してしまうとき、途端に真意がつかみ難くなってしまうのである。
ただ、境涯を想起させる句で知られた鬼城が「かへで」の作家にとって「崇敬」すべき俳人であったというのは、それほど不可解なことではないだろう。だがその一方で、本書には当時において鬼城がどのような俳人としてイメージされていたのかをうかがわせる一文もある。本書では鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」について次のように記されている。
今、この俳句について思ひ出すことは、東都現住の一先輩をたづねたとき、その人があからさまに冬蜂の句に評語を下し、これが秀句の一つであり。(ママ)また、所謂境涯の作と言ふことはみとめるが、どういふものか、句柄が古い。といふことで筆者に向かつてたたみかけてきたことがあるのです。(石原萬戸)
「冬蜂の」の句は一九一七年に刊行された『鬼城句集』(中央出版協会)も収められている。大須賀乙字はその序文で「古来境涯の句を作つた者は、芭蕉を除いては僅に一茶あるのみで、其余の輩は多く言ふに足らない。然るに、明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶より句品の優つた作者がある。実にわが村上鬼城君である」と絶賛しているが、この句は乙字の評とともに「境涯の句」の名手としての鬼城のイメージを決定づけたもののひとつであったろう。この句の「句柄が古い」ということについての是非はここでは問わない。重要なのは、二〇年ほど以前に「ホトトギス」の主力作家であった鬼城の代表作がすでに「古い」と見なされる程度には、当時の俳句表現や、その志向が変質していたということであろう。松本旭によれば虚子が鬼城を推輓した理由には鬼城の高齢、聴覚障害に起因する非社交性、貧困、田舎の居住地、非インテリ性といった性質があったというが(「近代俳句史上における鬼城の位置(一)」『村上鬼城研究』角川書店、一九七九)、こうした事実とともに句が読まれることでスターとなった鬼城も、すでに時代の求めるところではなくなりつつあったのである。さらにいえば、大正初期に活躍したいわゆる「大正主観派」のうち、鬼城以外の作家(渡辺水巴、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅)はこのころには主宰誌を持ち「ホトトギス」から離れていたし、当の「ホトトギス」においては日野草城や四Sをはじめ新風が次々と生まれていたわけで、鬼城はともすれば過去の作家と見なされてしまいかねない危うい位置にあったのではなかったか。そのようななか、「ホトトギス」の俳句に飽き足らず、一方では「季題の自由なる駆使即ち季題を他の環境の隷属関係に置く手法」(甲斐夏子)をとる新興俳句とも相容れない「かへで」の作家たちが鬼城に注目したのであった。だが、鬼城を「崇敬」しその復権をはかった彼らの仕事は、結局のところ乙字や虚子によって流布された鬼城のイメージを踏襲するものであり、「境涯の句」の名手という既存の鬼城像への批評とはなりえなかったのではあるまいか。
最後に、鑑賞文こそないものの、本書のそれぞれの鑑賞文の末尾に「古今春夏秋冬」と称して挙げられている句をいくつか紹介してみたい。俳句史の狭間で忘れ去られた彼らの追求していた「ほんたうの俳句」が何だったのかを知る手がかりとなるものであろう。
除隊旗を巻き細めたる夕かな 石堂
板橋の落穂拾ひて渡けり 椎花
茄子畑に饐え飯すてゝましろさよ 夏子
朝な朝な朝顔遠く咲きにけり 岳輅
屋根の上に人現れし野分かな 泊月
秋の江に打ち込む杭の響きかな 漱石
ある舟の輪飾落ちて流れけり 三昧
せせらぎを流るゝものやお元日 耕衣
冬の蜂おさへ掃きたる箒かな 素十
谷杉へ吹きしづまりし落花かな 虚子
冬風につるして乏し厠紙 蛇笏