【87】兄よりも禿げて春日に脱ぐ帽子  久米三汀

久保田万太郎・久米正雄『互選句集』(文芸春秋新社、一九四六)の一句。久米正雄(三汀)は福島県立安積中学校時代に同校教頭の西村雪人の勧めによって句作を始めた。絵画や野球をやめて俳句に熱中した久米は碧梧桐が選者を務める『日本』に投句し、二〇歳前後という若さで「日本俳句」の巻頭作家となるなど新傾向俳句の旗手となった。東京帝国大学文学部在学中に第一句集『牧唄』(柳屋書店、一九一四)を上梓。わずか二三歳でのことだった。『牧唄』を上梓した一九一四年といえば、久米が豊島与志雄や山本有三らと第三次『新思潮』を創刊した年でもある。久米がここに「牛乳屋の兄弟」(「牧場の兄弟」)を発表し劇作家として注目されるようになったのは周知のとおりである。以後の久米は劇作家、小説家として活躍するようになり、早熟の俳人久米三汀は一度俳壇から姿を消してしまった。

その久米が再び句作を始めたのは一九三四年頃のことである。すでに四〇代となっていた久米は渋沢秀雄(渋亭)、川口松太郎(蘇紅亭)らの「いとう句会」や大仏次郎(不通)、永井龍男らの鎌倉在住の文人たちを中心とした「荏草句会」、さらには「文藝春秋句会」「はせ川句会」などに顔を出すようになり、やがて第二句集『返り花』(甲鳥書林、一九四三)を上梓することとなった。とりわけ久保田万太郎と大場白水郎を宗匠格として遇した「いとう句会」が『返り花』上梓へと繋がったことは同書巻末で久米の自ら述べるところである。

同好の士は、恐らくは既に刊行された「久保田万太郎句集」に依つて、此の「いとう句会」なるものゝ存在を、はつきり知つてゐて呉れるだらう。久保田君は、其句集の跋文で、優婉に、彼の句集が、実に此の「いとう句会」の所産である事を述べたが、実は私の此の句集も、まさしく其「いとう句会」の産んで呉れたものと云つていゝのである。

今回とりあげる『互選句集』は終戦からわずか一年後に刊行された句集である。これは久保田と久米が互いの句集から互選した句をまとめたものだ。久米は『久保田万太郎句集』(三田文学出版部、一九四二)、『これやこの』(生活社、一九四六)から選び、久保田は『返り花』から選んでいる。『久保田万太郎句集』は第一句集『道芝』(友善堂、一九二七)の句を含めてまとめられた句集であって、『これやこの』が当時の久保田の最新句集であったことと考え合わせれば、久米は久保田の句をおおよそ全ての句作期間から抽出しようとしていたことがわかる。これは久米の句を選ぶときに『牧唄』を拒絶した久保田とは対照的な態度である。『牧唄』時代の久米の句について久保田は本書で次のようにいう。

その時代、わたくしもまた中学生で、俳句をつくつてゐた。が、新傾向論についても、新傾向句に対しても、わたくしは一向に感心しなかつた。これは、わたくしの師匠が松根東洋城だつたからばかりでなく、また、わたくしが三汀よりももつと温健だつたからばかりでもなく、当時、俳句をつくる一方、晶子の歌、泣菫、有明の詩を耽読していたわたくしには、新傾向句のおよそ生硬な、押しつけがましい、感情の渇き切つた表現からして気に喰はなかつた。その努力は、わたくしの目には、いたづらに俳句を散文化するだけのものとしか映らなかつた。……すなはち、以上の三汀の句は、残念ながら、そのいい見本で、それだけにまた、年少よく、その派に於ける第一級の作者たちに伍しえられたかれであつたわけである。(「三汀の句」)

久米が俳句を始めた頃、久米よりも二歳年長の久保田もまた、すでに松根東洋城選の「国民俳壇」でその名を知られる存在であった。新傾向俳句運動とは久保田の到底与しえないものであったが、一方の久米は『返り花』の跋文においてもなお「あの新傾向論だけは、古往今来の俳論中最も高級なものであり、専問(ママ)的なものであると信じ、又少くとも古格を持した初期の新傾向句は、明治俳壇の最高峰に位するもので、昭和の今日百花繚乱たるに比ぶべくもないが、新興俳句の凡ては茲に根ざして居るやうに感ずるのである」というように、新傾向俳句運動に対し部分的ではあれきわめて高い評価を与えている。もっとも、久米もまた新傾向俳句がやがて自由律へと進んでいったことには違和感を持ったようで、先の跋文で久米は「定型の俳句で盛り切れぬものゝある時、強ゐて私はそれを俳諧に託さうとせずに、敢然として散文に趨つたのである」と記しているのはそのあたりの事情を説明したものであろう。新傾向俳句運動に対し、中塚一碧楼や久米ら新鋭俳人たちと同世代だった久保田が「いたづらに俳句を散文化するだけのもの」と批判し、久米もまた「定型の俳句で盛り切れぬもの」を散文によって表現するべく新傾向俳句運動を離れたと書いているのは、明治末期の俳壇に最若手として参入していた者の回想として興味深い。

このように若き日の久米の句を批判して憚ることのない久保田だが、おもしろいのは、『返り花』に収められた句作再開後の作品に対してさえ、決して肯定的にばかり評しているわけではないところだ。久保田は「三汀といふ作者は、いつの場合でも、その制作意図をヒタ押しにし、全面的にこれをはツきりさせなければ承知しない」といい、また久米の句は「ことさらな言ひまはしなり内容なりをもつた句」であり「楷書」の句であるとしている。

朧夜の宴の氷菓くづし頒く
耕せし日の余温ある膝の継布(つぎ)
小諸なる古城に摘みて濃き菫
炎天を来て燦然と美人たり
金魚玉中の金魚の虚実かな

久保田は「楷書」の句としてこうした句を挙げている。「楷書」の句とは、ようするに作為のうかがえる句のことなのであろう。だが、若き日の久米は、むしろこの作為の多彩なヴァリエーションをもって名をあげたのであった。明治期の久米を知る岡栄一は次のようにいう。

魚城移るにや寒月の波さざら
明治四四年二月「日本俳句」「冬の月」(其一)巻頭第二句で、いうまでもなく寒月に照らされながら海上を移動してゆく一大魚群を魚城と見立てそのざわめきを捉えたものであるが、句として単に壮大な境地というばかりでなく、その頃日本で最も新らしいとされていた近代フランス絵画の外光派的手法を鮮やかに句に取り入れた点など、久米さんらしい非凡な才幹が感ぜられる。事実この句は世評を高からしめ、この一句で三汀の名は新傾向俳壇を圧倒して、「魚城の三汀」とまで謳歌せられたのである。(原文「ざわめき」に傍点。岡栄一『俳句研究』一九六一・五)

この頃「日本俳句」の巻頭を飾った久米の句をいくつか挙げてみたい。

五所濃染め染草畑の一ト茂り
隅作り行く霧や牧の小屋小屋に
昆布土産旅知らるるぞ秋蚊帳に
㡡は秋にして仏具磨ぐ美妙音
網主に錘調べの初東風や

定型ではあるものの、むしろ定型であることに抗うかのような詰屈な表現が見られる。「魚城」に限らず斬新な語彙を取りいれようという熱意はよくわかるが、今となってはその熱意の過剰さに気後れしてしまい、むしろこれらを良しとしなかった久保田の感覚のほうが理解しやすいのではないだろうか。これらに比べれば、先に挙げた『返り花』の「楷書」の句などは―まだまだ肩肘張ったようなところがあるとはいえ―だいぶ油っ気が抜けてきているように思う。久保田はさらに『返り花』のなかに「草書」の句があるともいい、その例として次の句を挙げる。

石垣の吐きをる水や秋の風
  宮田軍医中尉を迎ふ
秋草に少し太りて帰りしよ
わかち合ふ玉子焼あり秋の風
月今宵まだ麻のもの著たりけり
陸橋の方へ出口の時雨かな
日のあたる動物園や年の暮
寒玉子一つ両手にうけしかな

かつての「魚城の三汀」の面影は、これらの句においてはもはやほとんど見ることができない。ごく平易に詠んでいるが、しかしながら、たとえば「秋草に」の句などは到底一朝一夕に成るものではあるまい。かつて才気溢れる句でならした早熟の俳人三汀は、中年を過ぎて今度は天衣無縫ともいうべき作風を披露したのである。
さて、ここで表題句に話を移すと、この句は久米の句のうちでも久保田が最も好意的に評価しているもののひとつである。

わたくしは、この句をもつて、三汀俳諧の精髄を語るものとしたいのである。……叙事詩人のかれの、いま、抒情詩人のかれのまへに、いま、しづかにかれの帽子を脱したけしきのめでたさよ。まことに春日煦々である。

「兄よりも禿げて春日に脱ぐ帽子」の一句を前にして、久保田としてはまさに我が意を得たりといったところであったろう。ここにはかつての久米の句にあった生硬さも妙な作為の影も見あたらない。脱帽し、春の日差しを禿げ頭に受けるその姿はいよいよ自在、いよいよ静穏である。