【96】妻子ある命を壺の蛸の夏     不軽青蛙

不軽青蛙『満蒙落日』(里文出版、昭和六〇)の一句。
不軽青蛙(飯田忠雄)は、昭和一四年に京都帝大法学部を卒業後満洲に渡り協和会安東省本部青年科長、鳳城県本部事務長などを務めた人物である。戦後は衆議院議員として三度当選するなど政治家としても活躍している。本書は青蛙が自身の満洲時代を俳句で綴った句集である。あとがきには次のようにある。

 この句集は昭和十四年四月から昭和二十一年末までの間、私が仕事の間に習作して記憶に留めておいたものを、整理編纂したものであります。思い出すままに書き留めた二千数百句の中から、人様におみせしても恥をかく程度の少いもので、当時の姿を現しているものを五百数十句選出したものです。残余は後に残すほどのものでないと思い、思い切って削除廃棄しました。

青蛙は本書上梓の数年前に加藤三七子に俳句の指導を受けているが、それ以前は誰に俳句を学んだというわけでもないらしい。ただ、俳句を嗜んでいた父の影響で高校の頃から俳句を始め「順調のときは句作を休み、逆境か、精神的衝撃の多いときに始めるといった程度」で続けていたという。しかしながらその父の作品は散逸してしまい、青蛙も「この世の俳句集にもないでしょう」と記しているから、それがいかなるものであったのか知るのは困難であろう。とはいえ、本書上梓にあたりそれまで「不軽」としていた自らの俳号に父の俳号である「青蛙」を加え「不軽青蛙」と名を変えたように、本書成立にこの父の存在は大きく関わるものであった。

 この句集は幽玄の表現を目的としていない。政治、思想を俳句の形式で表現することを目的としたものです。五・七・五の言葉の形式と俳句の約束である季語を入れるという二つの条件を充す外は、全く自由とした。この二つの条件をはずせば俳句でないというのが父の教えであった。父の俳句の精神が私の自伝の一部を俳句の形式を以てすることを教えたのであります。

青蛙のいうように本書は自伝的な意味合いをもって記されたものであった。したがって、本書は渡満した昭和一四年に始まり、引き揚げから公職追放に至る昭和二一年までの句を文章を織り交ぜつつ時系列的に並べるという構成をとっている。

公表は満系とのみ秋の声
遺族には戦死と伝う夜寒かな

昭和一六年初秋、綏陽国境警察隊の日系隊員の一人が満系警士とともにソ連のスパイ活動をした容疑で銃殺刑となった。満洲国裁判官によって死刑が言い渡されると同僚の警察隊員の手によって一人ずつ後頭部を撃ち抜かれたという。
一方、満洲国解体後の昭和二一年には次の句がある。

徹夜して刑死の友の凍土堀(ママ)る

昭和二〇年九月二三日、国民党鳳城県本部の命により治安維持会による日本人幹部の一斉検挙が実施された。同日国民党書記長の招きで面談していた青蛙は検挙を免れ、翌日出頭するも党部の指令で釈放された。その後の人民裁判によって鳳城県の少なからぬ数の要人が戦犯として処刑を言い渡されたが、そのなかには青蛙の友人であった三橋副県長もいたという。青蛙は協和会青年訓練所を引き払って日本人街へと移るとき、その通りの民家に掲げられた満洲国の国旗が青蛙たちの馬車の行き過ぎるや青天白日旗へと変わっていくのを見たというが、青蛙は激変する状況のなかで辛くも生き延びた一人であった。
そのような青蛙の自伝的句集としての本書のハイライトは、何といっても昭和二〇年八月一五日の次の句であろう。

詔勅の晩夏や京劇歓尽す

終戦間近の七月、鳳城県の協和会館を劇場に充当し京劇劇団を編成することが決議され、八月一五日の公演初日に向けて準備が進められることとなった。当時は県内各村への糧穀の集荷工作が過酷をきわめていた頃で、警察官吏による厳しい監督と督促とによって人々は不満を募らせていた。そうしたなか協和会館では各村の有力者を招いた労いの宴が催されるなど民心安定策が講じられたが、その流れのなかで誕生したのがこの劇団だったのである。
公演初日の八月一五日正午、終戦の詔勅がラジオで放送された。青蛙はじめ協和会職員はその前日に協和会本部や安東省本部から「明十五日正午前、電々公社に出頭してラジオ放送を聞き、以後の行動は自ら判断してゆくよう」指示を受け、終戦の詔勅を聴いている。この日、京劇は予定通り行われたという。そのわずか三日後に満洲国は解体、協和会も解散している。まもなく自らが辿ることになる運命に対する想像力が青蛙たちに欠けていたとは思われない。いやむしろ、じゅうぶんに想像できていたからこそ京劇を続けたのではあるまいか―そう思うとき、「京劇歓尽す」という言葉が異様なものとして立ちあがってくる。
ところで、本書には意識的かどうかはわからないが高名句と類似した句が見られる。

夏列車一大緑円盤の中

これなどは草田男の「秋の航一大紺円盤の中」と甚だしい類似が見られる。誰にも師事していなかったという若き日の青蛙であるが、昭和九年に『ホトトギス』雑詠欄の巻頭句として発表され『長子』(沙羅書店、昭和一一)にも収められているこの句を読みうるような読書環境にいたことがこの句からうかがえる。
一方で、次のような句もある。

妻子ある命を壺の蛸の夏

この句の直前には「上陸に蛸壺戦術夏芝居」とあるから、「壺の蛸」とは蛸壺戦術で米軍に抗戦せんとする自らのありようをいったものであろう。青蛙によると蛸壺戦術とは「米軍が黄海沿岸の荘河県に上陸し、戦車を以て攻撃することを予想し、戦車の通路となるところに一人隠れ得る穴を掘り、この穴から戦車に向って、手投弾、火炎びんを投げつける作戦」であるという。
この句からは芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が想起される。芭蕉は蛸を明日の命も知らぬはかなくも滑稽な存在として詠ったが、戦車に生身の身体で対抗するという何とも悲惨な戦術にささげる命もまた、はかないというよりもむしろ滑稽で、実際、「上陸に蛸壺戦術夏芝居」と詠んだのはこの戦術の荒唐無稽さを揶揄したものであったろう。しかし滑稽であればこそ、その命はいっそう哀しみを帯びてもくる。
そういえば本書冒頭には次の句があった。

語り部や柳條溝に夏近し

この「語り部」について、本書では次のように説明されている。

満州事変の発生した満鉄線破壊のことは、日本軍の謀略であったが、それを中国側の行為としていたため、うそがばれないようにそれを当時の下士官を語り部の役目をさせて、来訪する人に語り聞かせていたことをいう。

この「語り部」もまたどこか滑稽であるが、それにしても、先の「妻子ある」の句にせよ「語り部や」の句にせよ―さらには銃殺の句や京劇の句においても―作品それ自体のみではほとんど青蛙の意図するところを汲みとることができないのは興味深い。これらの句は、当時の満洲で通用していた語彙の共有を僕たちに要請する。いやもっと的確にいえば、青蛙は、たとえ結果的にであるにせよ、その語彙でなければ書けなかったのではあるまいか。そして、決して「人様におみせしても恥をかく程度の少いもの」とはいいがたい、ほとんど独善的ともいってもいいそれらの句を呈示したのは、青蛙なりの切実さの表れではなかったか。
鈴木六林男の句集に『悪霊』(角川書店、昭和六〇)があるが、六林男はこの句集で陸軍戦時編成師団符号や隠語を散りばめた連作を披露した。六林男が自らの作家としての意志に従うとき、それはたとえばこうした語彙を用いて書くというかたちで実践されたのだったが、終戦から三十年以上を経てなおこのような語彙に執着しそれによって書くしかなかった六林男の姿を思うとき、六林男の抱えていた痛みの深度もまた思われてならない。それはまた、奇しくも『悪霊』と同年に『満蒙落日』を上梓した青蛙にも少なからずいえることではあるまいか。