【97】  雪舟は多くのこらず秋螢   田中裕明

波多野爽波と田中裕明は師弟でありながら、それぞれ異なる資質を有した俳人といっていいであろう。ただ、それでもやはり師弟であるゆえ共通する部分も少なくない。例えば、田中裕明の第一句集『山信』には、爽波的な要素を割合色濃く見て取ることができる。方法論的な部分としては、実感を基軸としての事物の捉え方や取り合わせの手法、そして、作家的な資質としては、天上性や幼年性など、田中裕明の俳人としての基盤は、一応こういった爽波由来の要素で成り立っているといえるはずである。

ただ、波多野爽波が、読書嫌い(俳句を除く)で裏表のない直情の俳人であったのに対して、田中裕明の方は、古典和歌から現代詩まで幅広い詩歌の知識を湖水の如く湛えた思慮深い俳人といった趣きが強い。

この両者の間において決定的に異なるのが無常観の有無となろうか。掲句は、第二句集『花閒一壷』収載のものとなる。「雪舟」の絵の少なさと、「秋螢」の存在が詠まれているゆえ、やはり無常の気配が色濃いといえよう。ただ、掲句には「雪舟の絵」と、「秋螢」が、ともに「数の少なさ」という共通項で並置されており、ここに爽波の取り合わせによるアナロジーの手法が見て取れる。

「秋螢」からは、〈もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 和泉式部〉〈沢水にほたるの影の数ぞそふわがたましひやゆきて具すらん 西行〉などの和歌に象徴されるように、昔の人々が蛍を「魂」と見做していたという事実が想起されるところがある。また、それに加えて、ここから思い出されるのは、松尾芭蕉の紀行文『笈の小文』の〈西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道(くわんだう)する物は一なり。〉という有名な一節となりそうである。

ともあれ、掲句は、数の少なさゆえの寂寥感が逆に強い印象を残すといった、まさに「もののあはれ」の情趣を色濃く感じさせる一句といえよう。また、ここからは「俳諧問答」における芭蕉の〈一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。〉の言葉も浮かんでくるところがある。このように見ると、田中裕明にとっては、芭蕉の存在が小さくなかったようである。同じ『花閒一壷』には、他にも、〈いづれかはかの學僧のしぐれ傘〉〈降りつづく京に何用夏柳〉〈菌山あるききのふの鶴のゆめ〉〈渚にて金澤のこと菊のこと〉など、芭蕉の影の揺曳している作品がいくつか認められる。

また、この句集には〈夕東風につれだちてくる佛師達〉〈さめてまた一と聲浮寢鳥のこゑ〉〈露涼しとてかよひ路のあらはなる〉などといった句が見られるが、先に引いた句も含め、ここに表出されているのは、過去と現在、具象と抽象、夢と現(うつつ)、意識と無意識、自己と非自己などといった二つの相の往還から立ち昇る時空間といっていいであろう。

結局のところ、この時期、田中裕明が描き出そうとしていたのは、それこそ芭蕉の〈京にても京なつかしやほとゝぎす〉における、自己の胸中に培われた「京」のイメージに象徴されるような、いうなれば「魂の原郷」の風景であったといえそうである。

田中裕明(たなか ひろあき)は、昭和34年(1959)、大阪府大阪市生まれ。昭和51年(1976)、「獏」参加。昭和52年(1977)、波多野爽波の「青」参加。昭和54年(1979)、第1句集『山信』。昭和57年(1982)、角川俳句賞。昭和59年(1984)、「晨」参加。昭和60年(1985)、第2句集『花閒一壷』。平成3年(1991)、波多野爽波逝去、「青」終刊。平成4年(1992)、「水無瀬野」創刊。第3句集『櫻姫譚』。平成12年(2000)、「ゆう」を創刊主宰。平成14年(2002)、第4句集『先生から手紙』。平成15年(2003)、『田中裕明集』(セレクション俳人)。平成16年(2004)、逝去(45歳)。平成17年(2005)、第5句集『夜の客人』。平成19年(2007)、『田中裕明全句集』。