【3】  夜の明けて我もうれしや渡鳥    高田蝶衣

おそらく高田蝶衣は、あの芝不器男と比較しても拮抗し得るだけの才質を有した俳人といえよう。両者の生没年をみると、蝶衣は明治19年(1886)生れで昭和5年(1930)に44歳で亡くなっており、不器男の方は、明治36年(1903)生れで、昭和5年(1930)に26歳で亡くなっている。蝶衣の方が17歳ほど年上であるが、没年が同じであり、このようにみるとまさに2人は同時代人ということになる。 両者の特徴としては、不器男は表現における無駄や冗漫さを徹底して排したストイシズムの俳人であり、蝶衣の方は蕪村的な余情を残した俳人ということになろう。

掲句は、秋の長い夜が明け、朝空の澄明な空気感の中、昇りくる陽の光を浴び思う儘に彼方へと飛翔してゆく渡り鳥の姿を捉え、その様子を眺めている内に、まるで自らもその鳥たちと同じようにどこまでも羽撃いてゆけるかのような自由な感覚を覚え、その喜びの感情が、若干淋しげな微笑を伴いつつもそのまま素直に言い止められている。

蝶衣には他に〈窓あけて見ゆるかぎりの春惜む〉〈月に遠く遊べる雲や海の上〉〈風吹かば皆蝶になれ連翹花〉〈水甕にそつと鳥来つ昼寝覚〉などの句があるが、いずれも世界の在りようそのものに対して青年の清新な詩心がそのまま感応し、作品の上に素直なかたちを以て直接反映されていることが感取されよう。

寝し家の前ゆく水の月夜かな

冷たく静謐な水面にありのままの形象を伴って映じている清澄な月の姿。この作品もまた蝶衣における代表作であるが、思えばこの句における池の水の性質と同じく、まるで磨き込まれた鏡面のようにあらゆる現実世界の事象を寸分違わぬ姿で受容し、瞬時にそのまま反照させたものがこの作者における作品ということになるのかもしれない。

ただ、その鏡面は時として〈屋上の風人を呼ぶ夜半の秋〉〈山彦を伴ふ窓に夏経かな〉〈山姫のさつ夫かへさぬ霞かな〉〈氷る月瞑目に神浮び来る〉などといった単なる目に見える現実の事象のみならず、自らの心象に去来した影をも含む風景をそのまま映し出すこともあったようである。

ともあれ、詩人の三好達治も称賛を惜しまなかったというこの作者の句から漂う香気とその孤愁を伴った透明感のある詩情については、やはり他に比類のないものといえよう。

高田蝶衣は、明治19年(1886) 兵庫県生れ。明治34年(1901)大谷繞石の指導を受ける。明治39年(1906)「俳諧散心句会」に参加。明治41年(1908)『蝶衣句集 島舟』。昭和5年(1930)45歳で逝去。昭和8年(1933)『蝶衣句稿 青垣山』。昭和16年(1941)『蝶衣俳句全集』(高木蒼梧編)。

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