【7】  八月は見ずに九月の螢かな   石川雷児

掲句の中心に明滅しているのは「九月の螢」のみである。秋の蛍は夏の季節における蛍と較べて数も少なく、発する光も弱々しいため哀切さが強く感じられる。その秋の蛍が最早冷たささえ感じられる夜の森閑たる空気の中でいま眼前に密やかに明滅している。

おそらく「八月」に蛍が存在しなかったというわけではないであろう。偶々の巡り合わせで八月中に見ることがなく、九月になってはじめて蛍の姿を目にする結果となったということになるはずである。そして、この「八月は見ずに」の部分が掲句の非凡な点で、この措辞によって眼前の「九月」の秋の蛍の淋しげな景観の背後に、おそらく数多く飛び交っていたであろう「八月」の蛍の力強い光を伴うイメージが、まるで幻影のように顕ち現れてくるということになるのである。

このように「八月」と「九月」の景観の重層性を含む対比によって秋の蛍における「もののあはれ」がより一層強く印象付けられ、また「八月」から「九月」への時間の推移からも、あらゆる存在が決して恒久的に一様の状態で在り続けることができないという事実における無常感が強く感じられるところがある。

この作者の師系である飯田蛇笏には〈たましひのたとへば秋のほたるかな〉という人口に膾炙した句があるが、掲句はその儚さゆえこの「秋のほたる」と深く通底するものがあるといえそうである。思えば、石川雷児には他に〈ひろく降る露に鳥獣虫魚の眸〉〈蓑虫や蕭条世界見ゆるのみ〉〈沛然と夏樫に雨壮年へ〉といった漢語を多用した句が幾つか見られるが、こういった特徴もまた蛇笏からの流れを感じさせるものがある。

そして、その一方で〈濃紫陽花踵ふたつが地のひかり〉〈藍揚羽石庭に雨意充てるなり〉〈でで虫や八百八町雨のなか〉などといった印象の鮮明な句が存在するが、これらの作品はまさしく直接の師である飯田龍太譲りのものといった趣きが強い。

このように石川雷児は、蛇笏的な要素と龍太的な光明や色彩感覚を併せ持ったまさに「雲母」の申し子ともいうべき作者であったが、昭和四八年(一九七三)に三六歳の若さで亡くなっている。実に惜しまれる事実であるが、それでも遺された作品はまるで掲句における「九月の螢」のように儚いながらも秘かな明滅を現在も静かに保ち続けているといえよう。

 

石川雷児は、昭和11年(1936)栃木県生まれ。昭和30年(1955)足尾鉱業社に入社。昭和31年(1956)飯田龍太の「雲母」に入会。昭和40年(1965) 第8回雲母賞。昭和48年(1973)36歳で逝去。昭和50年(1975)遺句集『夏樫』(牧羊社)。