【20】  緑陰をよろこびの影すぎしのみ   飯田龍太

暑さと涼しさ。この辺りに掲句におけるポイントの一つがあるのかもしれない。「緑陰」とは、青々と葉を茂らした樹木によってできた木陰のことで、夏の季語ということになる。「陰」が生じるわけであるから、時間帯は主に日射しの強い昼頃と見ていいであろう。

掲句は、基本的に「緑陰の涼しさ」を描いた句ということになるのではないだろうか。「緑陰」の上部や外には厳しい夏の日射しが直接降りそそいでいる。このことによって生じる自然の景物の織り成す光と影の微細なコントラストがなんとも印象深い。そして、その「緑陰」を通り過ぎる「よろこびの影」。この「影」は、やはり人のものと解すのが自然であろう。「緑陰」へと入ることによって、厳しい夏の日射しから免れ得た安堵と喜びの感情がこの「よろこびの影」という措辞によって表現されているのではないだろうか。

陽光の遮蔽された「緑陰」をよぎる「人の影」。この濃淡を伴う陰影の精妙さもまた掲句の世界を奥深いものとしていよう。ここで描かれている「人の影」については、年齢や性別、身長などといった人そのものに付随する具体的なディテールが一切省略され、非常に抽象化されたものとなっている。そして、そのことによってこの句に感じられる「緑陰の涼しさ」は、誰にでも共有可能な一つの「体験」として無名性を獲得し、一般化される結果となっている。

また、掲句の最後は「のみ」という言葉によって締め括られている。「すぎにけり」や「すぎゆけり」、「すぎ去りぬ」などではなく、「すぎしのみ」という終り方。このように末尾を過去の時制に規定し、作品を一つの完結した世界として囲繞することで、「緑陰」の涼し気な感覚と「よろこびの影」の優美なイメージがよりくきやかに印象に残る結果となっている。

掲句は第3句集『麓の人』所載の昭和40年(1965)の作である。思えば飯田龍太の作品には第1句集『百戸の谿』の頃から〈砂丘冬少女に父の髪ひかる〉〈夏川のこゑともならず夕迫る〉〈みのるひかりと幾家のいのちことなれり〉〈さむざむと地の喪へる夕鴉〉〈山の娘の交語みどりを滴らす〉〈蛍火や箸さらさらと女の刻〉〈花桐に一語を分ち愛の旅〉など割合抽象的な句が多く確認できる。また、第2句集『童眸』、第3句集『麓の人』にも〈月の道子の言葉掌に置くごとし〉〈穂孕田の上茫々と時間過ぐ〉〈冬の海てらりとあそぶ死も逃げて〉〈山枯れて言葉のごとく水動く〉〈川上に一燦の過去竹煮草〉〈蔓先に禁断の鳥さくら咲く〉〈氷上の一児ふくいくたる暮色〉〈空腹のはじめ火の色冬景色〉など、抽象的な句が少なくない。

掲句については、所謂「前衛俳句」からの影響というのも少なからず考えられそうであるが、やはりそれのみならず〈抱く吾子も梅雨の重みといふべしや〉〈露草も露のちからの花ひらく〉〈春すでに高嶺未婚のつばくらめ〉〈いきいきと三月生る雲の奥〉〈女らの肌みのりて山の出湯〉〈隼の鋭き智慧に冬あをし〉〈昼の汽車音のころがる枯故郷〉〈雪山を灼く月光に馬睡る〉〈枯野星こころ鋭き目をあつめ〉〈月光のまばたくたびに小鳥飛ぶ〉などの句にみられる「梅雨の重み」、「露のちから」、「未婚」、「生る」、「みのりて」、「鋭き智慧」、「ころがる」、「灼く」、「こころ」、「まばたく」といった常凡な措辞を劃然と斥けようとする試行性からも端的に窺えるように、月並な表現レベルとの妥協を潔しとしない強い作家精神の働きによって成された作品であるように思われる。

飯田龍太(いいだ りゅうた)は、大正9年(1920)山梨県生まれ。昭和29年(1954)、『百戸の谿』。昭和34年(1959)、『童眸』。昭和37年(1962)、蛇笏の没後「雲母」継承。昭和40年(1965)、『麓の人』。昭和43年(1968)、『忘音』。昭和46年(1971)、『春の道』。昭和50年(1975)、『山の木』。昭和52年(1977)、『涼夜』。昭和56年(1981)、『今昔』。昭和60年(1985)、『山の影』。平成3年(1991)、『遅速』。平成4年(1992)、「雲母」8月号を以て終刊。平成19(2007)、逝去(86歳)。