【27】  陰(ほと)に生(な)る麦尊けれ青山河   佐藤鬼房

「陰(ほと)」という言葉には、「山間の窪んだところ」という意味もあるとのことである。ということから、掲句については、実際の風景をそのまま詠んだものと解釈してもいいであろうし、またそれのみならず、やはりここには『古事記』における「五穀の起源」を思い起してみるべきなのであろう。

また食物を大気津比賣神に乞ひき。ここに大気津比賣神、鼻口また尻より、種種の味物を取り出して、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、その態を立ち伺ひて、穢汚して奉進るとおもひて、すなはちその大気津比賣神を殺しき。故、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故ここに神産巣日の御祖命、これを取らしめて、種と成しき。

この内容を踏まえた上で改めて掲句を眺めた場合、「陰(ほと)に生(な)る麦」という部分における実際の風景と引用の神話の情景がまるで二重映しになって見えてくるところがある。また、座五の季語「青山河」の働きが句の世界をより大きなものとする役割を果たしていよう。ここからはまさしく「母なる大地」といった言葉がそのまま思い出されてくるところがある。このように自然の相の中に神の姿をそのまま見出すという意味では、まさにアニミズムによる作品といえよう。

掲句は、昭和50年(1975)刊の第4句集『地楡』所収のものである。この句集には他に〈蝦夷の裔にて木枯をふりかぶる〉〈火を産んで死に笧(しがらみ)の杭となる〉〈天姥(てんぼ)おりくるかけはしの青すずし〉〈蝦夷胎貝(いがい)荒魂の岩鳴りこもる〉などといった同傾向の句がいくつか見られる。

こういった作品傾向の背景には1960年代における「高度経済成長」が影響を及ぼしていると見ていいであろう。それまで主に貧窮などといった社会的なテーマを詠み続けてきた鬼房であるが、そういった問題は、世の中が経済的な豊かさを獲得してゆくと共に表面的には消失してゆくこととなった。現実問題に対する切実さがある程度解消された時代の到来。おそらくそれは結果として自己の存在の稀薄化を齎すものでもあったであろう。同じ『地楡』には〈夜明路地落書のごと生きのこり〉〈よるべなき俺は何者牡丹の木〉といった句が見られる。

この時、鬼房にとって句作の縁(よすが)となったのは自己の原点(自己の原型的な資質)への遡及であったように思われる。例えば、第1句集『名もなき日夜』には〈毛皮はぐ日中桜満開に〉〈切株があり愚直の斧があり〉といった自己の風土性に根差した句があり、また、同句集には〈極北へ一歩思惟像たらんとす〉〈胸ふかく鶴は栖めりきKao Kao と〉といった割合空想的な要素の強い句が見られる。

掲句は、このような鬼房が本来的に有していた土着性と空想性といった資質が、時を経て前景化し、より高次において錬成されるようになった時期における象徴的な作品ということができそうである。

佐藤鬼房(さとう おにふさ)は、大正8年(1919)岩手県生まれ。昭和10年(1935)、「句と評論」を知り、投句。昭和17年(1942)、「琥珀」加入。昭和21年(1946)、「青天」参加。昭和23年(1948)、「天狼」創刊、投句。昭和26年(1951)、第1句集『名もなき日夜』。昭和30年(1955)、第2句集『夜の崖』。昭和40年(1965)、第3句集『海溝』。昭和50年(1975)、第4句集『地楡』。昭和52年(1977)、第5句集『鳥食』。昭和55年(1980)、第6句集『朝の日』。昭和58年(1983)、第7句集『潮海』。昭和59年(1984)、第8句集『何處へ』。昭和60年(1985)、「小熊座」創刊。平成元年(1989)、第9句集『半迦坐』。平成4年(1992)、第10句集『瀬頭』。平成7年(1995)、第11句集『霜の聲』。平成10年(1998)、第12句集『枯峠』。平成13年(2001)、『愛痛きまで』、『佐藤鬼房全句集』。平成14年(2002)、逝去(82歳)。平成16年(2004)、『幻夢』。