【30】  わが頭上玉虫舞ふは吉祥か   福永耕二

「吉祥天」は、仏教における女神であり、富や美、繁栄、豊穣などをもたらす存在であるといわれている。その姿は、唐服を纏い、左手には「如意宝珠」というあらゆる願いを叶える珠を携えているという。

掲句は、この「吉祥天」の持つ「如意宝珠」を、「玉虫」の煌びやかな姿に擬(なぞら)えて表現したものということになるはずである。実際は「玉虫」が頭上を舞っているに過ぎないのであろうが、その様子を「吉祥か」という虚構性を伴う表現によって言い止めたことでただの現実の景がやや天上性を帯びて見えてくるところがある。また「玉虫」が「飛ぶ」のではなく「舞ふ」と柔和なニュアンスによって表現した点も「吉祥天」の存在をより明確に想像させるものとなっていよう。

福永耕二には、このような空想性ともいうべき要素を伴った作品が他にいくつか見られる。例えば〈青天のどこか破れて鶴鳴けり〉〈寒禽の翔けたる空の創ふかし〉〈飛ぶ意ある雲を繋ぎて枯木立つ〉〈低山へ雲の目くばせあたたかし〉〈寒星をつなぐ糸見ゆ風の中〉〈北空のたちまち傷む雪卸〉〈めつむりて茅花流しに流さるる〉〈落胡桃悼むと空の冷ゆるかな〉〈流星のあと軋みあふ幾星座〉〈凧揚げて空の深井を汲むごとし〉〈浮寝鳥海風は息ながきかな〉〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉ということになる。いずれも現実を立脚点としつつも、単にそれだけの範囲にはとどまらない内実を有した作品といえるはずである。

しかしながら、そもそも福永耕二にはこのような作品への指向性が顕著かというと、実際は単純にそうではなく、両親や妻、子供などの家族や旅の景など現実の世界を俳句に詠もうとする傾向が主軸を成している。

ただ、その作品を眺めてみれば、ある事実に気が付くはずである。例えば〈アネモネの蘂の漆黒はやて雲〉〈萍の裏はりつめし水一枚〉〈飛べば即ち光塵と化す冬の蠅〉〈レグホンの白が込みあふ花曇〉〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉〈一灣の縁薄刃なす東風の波〉〈眦に火が走りきて雉子鳴けり〉〈凌霄を纏き曼陀羅となる一樹〉〈落葉松を駈けのぼる火の蔦一縷〉〈雪乱舞して白鳥を見せぬ湖〉などといった作品があるが、その表現されている内容を見ると、それこそやや「過剰」といっていい程の気迫が感じられるところがある。

掲句も含め前掲の空想性や虚構性を伴った作品傾向というものは、もしかしたらこのような表現意識の過剰さから派生したものということになるのかもしれない。即ち、強い気迫の作用によって表現内容が時として現実の相を超克してしまい、そのまま象徴の域にまで達する結果となっているのではないかと思われる。

福永耕二は42歳で亡くなっているが、その短い生涯において俳句へと傾けられた熱情は、こういった残された作品からも明らかなように、俳句史における様々な俳人と比較しても単純に引けを取るものではないであろう。

福永耕二(ふくなが こうじ)は昭和13年(1938)、鹿児島県生れ。昭和30年(1955)、「馬酔木」に投句。昭和44年(1969)、「馬酔木」同人。昭和45年(1970)、「沖」創刊参加。「馬酔木」編集長。昭和47年(1972)、第1句集『鳥語』。昭和55年(1980)、第2句集『踏歌』、12月逝去(42歳)。昭和57年(1983)、第3句集『散木』。昭和63年(1989)、『福永耕二 : 俳句・評論・随筆・紀行』(福永美智子編)。