【36】  麒麟の域天美しきとき立たん   和田悟朗

「麒麟」は、ここでは草食動物のそれではなく、やはり古代中国における想像上の動物の存在を思い浮かべるべきなのであろう。「麒麟」は、鹿の形に似た大きな体躯をしており、尾は牛、蹄は馬に似、頭上には角を有し、その毛並は五彩の輝きを放つといわれている。

作品としては、それこそ全体的にやや意味性を超越しているような印象があるが、その因は、「麒麟の域」という「麒麟」そのものを直接句に登場させず間接的に表現している点がまずひとつ。そして、「天美しきとき」というこれもまた抽象的な表現が採られており、さらに最後の「立たん」という多義的な意味(例えば、月や虹が「立つ」、または人が「立つ」など)を含む言葉の存在もそういった印象を齎す結果となっていよう。

一応のところ、ここで表現されているのは、「天」が「美し」い時に、「麒麟」の領域(テリトリー)が「立」ち上がってくる、ということができそうであるが、ここでは必ずしもそういった一義的な意味性のみならず、その超越性を伴ったイメージや雰囲気をただそのまま感受すればいいのであろう。

掲句は無季の作品であるが、無季であるゆえの内容の弱さがさほど感じられないのは、「麒麟」という言葉の超常性と、「美しき」、「立たん」という言葉の力強さが形式の内にそれぞれ上手くバランスを保ちつつ作用しているゆえといえそうである。

この作者には、掲句に見られるような、何かしら「果てしのないもの」への憧憬というか、さらにいうならば「絶対的な何か」を希求してやまない精神というものが内在しているように思われる。例えば、掲句のみならず〈炎天へ遠き部屋にて水を煮る〉〈みみず地に乾きゆくとき水の記憶〉〈雲にいどむ少年夜は青き小枝〉〈太陽へゆきたし芥子の坂を登り〉〈死なくば遠き雪国なかるべし〉〈黄道を先行くここち鷦鷯(みそさざい)〉〈天の桃弥生の壺を粉粉に〉〈垣間見し焰のかたち梅の冬〉〈太陽を娶るはるけき菜の花と〉〈春月や犬に生れて橋架かる〉〈巻貝に捩れて春の何もかも〉〈春の雑踏少年龍を思い立ち〉〈ありしことすべてなかりし夏の原〉〈太古より墜ちたる雉子の歩むなり〉〈夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし〉などといった超越性を有した句を他にいくつも見出すことができる。

また、これらの作品には、どの句にもある種の「肉体性」が潜在していることが確認できよう。例え空想的な内容の作品であっても、その一方でどこかしら現実の世界との繋がりを堅持している。これはやはり科学者としての視点というものが、句の上にも強く作用しているためと見ていいはずである。本来的に「虚実」の要素を包括しているのがこの世界の実質であるという確たる認識の下に、そのような多義性を有す世界像というものを言葉によって様々なかたち(直接性、間接性など)で表現しようとする意志が、この作者の作品の基底部を成しているように思われる。

和田悟朗(わだ ごろう)は、大正12年(1923)兵庫県生まれ。昭和27年(1952)、橋間石の「白燕」参加。のち「坂」、「俳句評論」、「渦」同人。昭和43年(1968)、『七十万光年』。昭和52年(1977)、『現』。昭和56年(1981)、『山壊史』。昭和59年(1984)、『櫻守』。昭和62年(1987)、『法隆寺伝承』。平成4年(1992)、「白燕」代表。平成5年(1993)、『少間』。平成8年(1996)、『即興の山』。平成17年(2005年)、『人間律』。