【38】  わが中に道ありて行く秋の暮   野見山朱鳥

高浜虚子率いる名門「ホトトギス」最後のプリンスが野見山朱鳥であろう。昭和25年(1950)刊の第1句集『曼珠沙華』における虚子の序文〈曩に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た。〉はあまりにも有名である。

朱鳥は、昭和20年(1945)の20代後半から「ホトトギス」に投句。翌年、同誌の巻頭を得、俳壇に知られるようになった。そして、前述の通り昭和25年(1950)に投句5年目にして早くも第1句集『曼珠沙華』を上梓と、まさに早熟の才による瞬発力を見せている。この時期の作品としては〈犬の舌枯野に垂れて真赤なり〉〈曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて〉〈火を投げし如くに雲や朴の花〉〈蝌蚪乱れ一大交響楽おこる〉〈夜の眉銀河の如く濃ゆくひけ〉〈寒雷や舌の如くに桃色に〉など原色の強い若干異色ともいうべき作風を示しており、このように見ると当初からホトトギス的な作風とはやや異なる資質を有していたようである。

掲句は、朱鳥の最後の句集『愁絶』(第6句集)収載の昭和42年(1967)の作ということになる。やや抽象的な内容ながら、どこかへと向かってゆこうとする意志の力が明確に感じられる。そのことは、以前の作である第4句集『運命』収載の昭和32年(1957)の〈わが中の破船を照らすいなびかり〉と比較した場合、より明らかなものとして感取できよう。内なる「破船」はどこへも向かうことができず、「いなびかり」の驚異にもただ手を拱いているのみである。

この「破船」の句に比べると掲句の方は、足元さえおぼつかない薄明の中にあっても、なお前へと進んでゆこうとする姿勢が見られ、単に閉ざされた世界に逼塞しているのみの作品ではないということがわかる。ここに確認できるのは、まさに自らの力のみを恃みにしようとする孤心の存在であろう。それこそ、芭蕉の「此の道や」の句と同じ意志の力が、そのまま髣髴としてくるところがある。

掲句の制作年と同じ年である昭和42年(1967)に、朱鳥は「ホトトギス」と俳人協会から離脱している。そういった事情も、この作品の上には反映しているのかもしれない。

また、それのみならず同時期に朱鳥は病気による入院生活を余儀なくされている。この時期の作品には、他に〈永き昼子よ飴玉をくれないか〉〈臥すわれを見守りをれる春の星〉〈茅舎忌の夜はしづかに天の川〉〈土星の環傾き昇る露の天〉〈はく息の白き微光も野の日暮〉〈過ぎし時ひかりを放つ夜の枯木〉〈雪嶺を光去りまた光射す〉〈露は葉に結び銀河は流れつつ〉〈雲ありて遠くを見をる秋のくれ〉〈白露に眠る七星天道虫〉〈水に映る露の放てる光かな〉〈枯木星誰もが祈りもつ日暮〉〈金星と波音ばかり冬の宿〉〈大寒やみつめゐしもの光り出す〉などがある。初期の烈しさを伴う作風と比べて、いずれの作品にも「仄かな光」が常に遍在していることが確認できよう。この「光」は、掲句の内にも湛えられているものといえるはずである。

集団を離れ、病床にあっても、その作品はこれまで以上に研ぎ澄まされ、静謐なひかりを放つようになっている。弱さが単にそのまま弱さとして作品の上に現出するわけではないのが文芸というものであろう。まさにこれらの作品には、逼迫した状況の中にあっても、単にその状況に容易に屈してしまうことなく、作品行為自体を深い祈りへと昇華させることによって会得された逆説的な強さが宿されているといえよう。

野見山朱鳥(のみやま あすか)は、大正6年(1917)、福岡県生まれ。昭和17年(1942)句作開始。昭和20年(1945)、「ホトトギス」に投句、高浜虚子に師事。昭和25年(1950)、第1句集『曼珠沙華』。昭和27年(1952)、正式に『菜殻火』創刊。昭和29年(1954)、第2句集『天馬』。昭和33年(1958)、波多野爽波、橋本鶏二、福田蓼汀らと「四誌連合会」結成。昭和34年(1959)、第3句集『荊冠』。昭和37年(1962)、第4句集『運命』。昭和42年(1967)、「ホトトギス」同人、俳人協会会員を辞退。昭和45年(1970)、逝去(52歳)。昭和46年(1971)、『野見山朱鳥全句集』(第5句集『幻日』、第6句集『愁絶』を含む)。平成4年(1992)、『野見山朱鳥全集』(梅里書房)全4巻。