流れつく畳に咲かうとする菫  中原道夫

昨年の『よみあう』ですでに取り上げた句だが、今一度、今日を思って取り上げてみる。これは角川『俳句』の特集で掲載されていた句だ。この特集については、やはり少し違和感を覚えて、俳句になにができるんだとか、なにをさせたいんだ。とか、いろいろ思いながら読んだ記憶がある。
私は俳句が好きな理由の一つに、過去の出来事や思いも救ってくれるところがあるのだが、当時は当時の、一年過ぎた今は今の痛みがあって、それらを詠むのは痛いその瞬間でなくてもよかったはずだ。
俳句は時に、読んだ人の「今」を救ってくれるけど、救うことができる期待を俳句を詠むときにのせてはいけない気がする。作者の方々の中でも、きっと、その時の気持ちはまだ俳句にしたくないと思いながら詠んだひともいるのではないかと思う。大事なのは瞬発力ではなくて、忘れないということだと思う。
この句は本当に好きで、読み返すと、もしかしたら今日のことなのかもと今思う。もしかしたら、今、菫が咲こうとしているのかもしれない東北の風を思うと、少し胸のあたりが軽くなる気がする。

角川『俳句』(角川学芸出版 2011年5月号)より