【43】  握りしめた夜に咳こむ   住宅顕信

句集『未完成』は、ほぼ病床における作で占められている。住宅顕信は、昭和36年(1961)、岡山県生まれ。昭和58年(1983)、22歳の時に京都西本願寺で出家得度。病気による入院生活が始まったのは出家の翌年である昭和59年(1984)の2月からである。

掲句もまた病床における句と見ていいであろう。「咳」は、俳句では冬の季語である。「握りしめた夜」という表現が少々不明瞭ながらも、ここからは一人の青年の焦燥感や孤独感が直載に感じられるところがある。自由律俳句における「咳」の句といえばやはり〈咳をしても一人  尾崎放哉〉が想起されるが、顕信は尾崎放哉(1885年~1925年)の作品を精読していたとのことから、掲句はこの放哉の句を意識してのものと見ていいかもしれない。

両句を較べてみると、放哉の句がストレートに孤独感を描いているのに対し、顕信の句の方は「夜」を「握りしめ」るといったかたちで孤独感を表出している。この「夜」を「握りしめ」るというまるで劇画を思わせるような切迫感とある種の意志の力を伴った表現は、やはり放哉の時代には見られなかったものであろう。

境涯性の強さにおいては、種田山頭火(1882年~1940年)や放哉と割合共通するものの、顕信の作品は、掲句にも見られるように表現の在りようにおいて幾分か相違する部分がある。それこそ「握りしめた夜」のややシュールともいうべき叙法は「現代詩的」といってもいいであろう。顕信の作品には、他にも〈看護婦らの声光りあう朝の廻診〉〈降りはじめた雨が夜の心音〉〈雨に仕事をとられて街が朝寝している〉〈点滴びんに散ってしまった私の桜〉〈水滴のひとつひとつが笑っている顔だ〉〈信号が点滅する夜が脈うっている〉〈月明り、青い咳する〉〈ずぶぬれて犬ころ〉など、やはり所謂「現代詩」に近い性質の句が少なくない。

また、それとは逆に、山頭火や放哉の句と共通する部分としては、現実における実感に基づいた「身体感覚」が挙げられよう。掲句における「握りしめた」、「咳こむ」にしてもそうであるが、顕信には他にも〈仕事のない指が考えごとしている〉〈立ちあがればよろめく星空〉〈並んでやせた朝の身体測っている〉〈月をゆがめている熱がある〉〈春風の重い扉だ〉〈やせた身体たんねんにふいてやる〉〈淋しい指から爪がのびてきた〉〈障子の影が一人の咳する〉など、やはり病者ゆえの感覚に対する鋭敏さというものを見て取ることができる。こういった感覚は主に旅の中で句作を行っていた山頭火の〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉〈投げ出してまだ陽のある脚〉〈咳がやまない背中をたたく手がない〉〈ここにかうしてわたしをおいてゐる冬夜〉〈鉄鉢の中へも霰〉あたりにも若干共通するものといえようが、さらに近い位相にあるのが小豆島の庵で病とともに句作を続けていた放哉の〈爪切つたゆびが十本ある〉〈肉がやせて来る太い骨である〉〈足のうら洗へば白くなる〉〈淋しいからだから爪がのびだす〉〈淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る〉などの作品となろう。

このように見ると、住宅顕信という作者は、山頭火や放哉にも共通する強い境涯性を自ら生き、その中で山頭火や放哉らの作品には見られない新たな感覚を賦活することによって、現代に自由律俳句を甦らせることに成功した稀なる俳人ということができるように思われる。

住宅顕信(すみたく けんしん)は、昭和36年(1961)、岡山県生まれ。昭和59年(1984)10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。昭和60年(1985)、句集『試作帳』を自費出版。藤本一幸の主宰する自由律俳句誌「海市」に参加。昭和61年(1986)、「海市」編集同人。昭和62年(1987)、2月逝去(25歳)。昭和63年(1988)、句集『未完成』(弥生書房)。