【51】  蜊蛄に水盤の円無限なる   西村白雲郷

勿論、「無限」というわけではないであろう。「水盤」は、夏の季語であり、浅くて広い陶磁製の鉢に水を湛え、そこに蘆などの夏の草花を配して涼趣を誘うもののことを意味する。

その「水盤」の中に「蜊蛄(ざりがに)」が投入されている。「水盤」の空間は、それほど広いものではないが、それでも「蜊蛄」にとっては、そういった限定的な空間でさえ未知なる広さとして認識されるのかもしれない。「無限」という言葉の作用から、さながらそのようにも思われてくるところがある。

一応のところ、「水盤」の内部の様子を自らが眺めている、という内容になるわけであるが、ここではそれのみならず、いつの間にかあたかも自らが「蜊蛄」となって「水盤」の内に沈潜しているような気さえしてくるところがある。「水盤」の中において「蜊蛄」と化している自らの存在と、また一方で、その様子を上方から眺めている自らの存在。それこそここからは「自己」と「蜊蛄」における主客の在りようが交替し混在するような感覚をおぼえるところがある。

「水盤」の内にぽつんと存在している唯一つの生命。それは単なる「蜊蛄」という属性を越えて我々の存在をそのまま象徴しているかのようにも思われてくる。そして、ここからは、それこそ生命そのものが抱えている根源的な寂寥感が感じられるといえよう。掲句はまさに、小さなオブジェのようでありながら、その一方で無辺ともいうべき世界観を抱懐した作品となっている。

また、掲句には「個(自己)と全体性」ともいうべき関係性が描かれているわけであるが、ここに西村白雲郷の作品におけるひとつの特徴を見出すことができるかもしれない。例えば〈稲雀空が広うて飛びまどふ〉〈涅槃像を思ひつつ通る寺の暮〉〈名無し浜の汐干を一人ゆくは人〉〈草摘の二人離れて静なる〉〈馬は馬に生まれ春塵のその睫〉〈土の螢つまむとき指太く思ふ〉〈梅の花枇杷の木は咲きやんでいる〉〈春の雲白きが中に白さある〉〈戸のうちに春暁の鳥聞き数ふ〉〈火蛾に交り来してんと虫地図を這ふ〉〈枝蛙居るところ生きて居るところ〉〈人が人に行き違ひたるのみの春野〉〈梅雨の山応へ無ければ鳴く雉か〉〈一花一花は赤し紅梅昏れたれど〉〈これが我れか緑陰に手の静脈見て〉〈旅装すればすでに旅なり遠き鵙〉などといった句があるが、これらを見ても、やはりそのような関係性を見て取ることができるであろう。

掲句も含め、これらの作品には、現実の景観をそのまま単純に描写しただけにはとどまらない、なにかしらの「哲理」とでも呼ぶべきものが底流しているように思われる。さらにいうならば、それこそ「禅」的な風趣が感じられるといっていいであろう。白雲郷は、青年の頃から禅書に親しみ、また晩年には、歌舞伎や浄瑠璃、落語などで有名な大阪の「野崎」にある慈眼寺(野崎観音)というお寺に勤めていたとのことで、やはり禅的なものとの関わりが深かったようである。作品にも〈絵襖の鴉禅林の寒鴉〉〈涼しさや山是山水是水〉など、禅をそのままモチーフとした句がいくつか見られる。掲句にしても「円」という言葉から、禅の書画である「円相図」が想起されるところがある。

これらの作品を見ると、西村白雲郷には、自然界(世界)の表層的な部分のみにとどまらず、その背景を形作っている本質的な部分までをも捉えようとする意思が内在していたのではないかと思われる。そして、そういった指向性が、掲句も含め、事物や存在そのものの在りように対して、単一的な把握ではない一歩踏み込んだかたちでの作品表出が行われる結果となっていたということになるのであろう。

西村白雲郷(にしむら はくうんきょう)は、明治18年(1885)、大阪府生まれ。大正4年(1915)、松瀬青々の「倦鳥」に投句。大正14年(1925)、『瓜燈篭』。昭和11年(1936)、「断層」創刊。昭和24年(1949)、『瓦礫』、11月「未完」創刊主宰。門下に稲葉直、阿部完市。昭和27年(1952)、『四門』。昭和33年(1958)、逝去(73歳)。昭和34年(1959)、『塵々抄』。